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平将門の時代〜その3 : どーか誰にも見つかりませんようにブログ
武蔵国の国守として武蔵に赴任した百済王貞連は興世王とは姻戚があったが、百済王貞連は興世王を政治か... 武蔵国の国守として武蔵に赴任した百済王貞連は興世王とは姻戚があったが、百済王貞連は興世王を政治から遠ざける等した為に不和となったという。行き場を失った興世王は下総国の平将門の元へ身を寄せるようになったという。 太政大臣の藤原忠平は源経基の訴えた将門謀叛の真偽を確かめるべく、武蔵密告史の派遣を決定するが派遣するよりも早く将門から二通の弁明書が届き、評議が行なわれたが将門は無罪となる。源経基は讒訴(ざんそ)した事になり禁錮に処せられている。 939年6月中旬、上総で平良兼が病没する。また、この頃に平貞盛が将門を召喚する官符を持って常陸へ帰国し、常陸介・藤原維幾(ふじわら・これちか)に渡り、維幾は将門に召喚の官符が来ていることを頻りに通告するが、将門は維幾を無視する。 同年7月15日、再び出羽に於いて俘囚反乱の知らせが届き、折からの飢饉を憂いて天台座主(天台宗トップ)の雨乞いの読経が行なわれたと
2015/08/13 リンク