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“私”が存在するのでないなら、“何”が存在するのか?(『エスの系譜』雑感)|祝子川通信 Hourigawa Tsushin
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“私”が存在するのでないなら、“何”が存在するのか?(『エスの系譜』雑感)|祝子川通信 Hourigawa Tsushin
どこに書いたのか忘れてしまいましたが(最初にここに載せた三本のクリシュナムルティ論のいずれかに入... どこに書いたのか忘れてしまいましたが(最初にここに載せた三本のクリシュナムルティ論のいずれかに入っているはずです)、デカルト先生の有名なコギト・エルゴ・スム、「私は考える、ゆえに私は存在する」という命題は間違いだと、書いた覚えがあります。「考える」からといって、そこから「考える主体」である「私」が必然的に導かれるわけではないのだ、ということを、です。あんまりそういうことを言う人はいないのだろうと思って書いたのですが、無知というのは恐ろしいもので、先日僕は『エスの系譜』(互盛央著 講談社)という本を書店で見つけて読み、同じようなことを言った人がたくさんいたという事実を知らされて驚きました。すでにあのニーチェが『善悪の彼岸』にこう書いていたというのです。 ●主語「私」は述語「考える」の前提である、と述べるのは事態の捏造である。それが考える[Es denkt]。だが、この「それ」はまさにあの古く