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asahi.com:【戦争と詩人】3 南京-マイタウン三重
◆残虐行為 見聞をつづる◆ 2冊の従軍手帳がある。 手のひら大の黒革の表紙。錦米次郎が、癖のある豆粒... ◆残虐行為 見聞をつづる◆ 2冊の従軍手帳がある。 手のひら大の黒革の表紙。錦米次郎が、癖のある豆粒のような字をびっしりと書き込んでいる。1939年分は合計98ページ、約6千行に及ぶ。 南京事件後の39年の元日、「南京で思い出し難いのは難民共のことだ」と記している。その後の4行は黒塗りされ、三重大教授の尾西康充(44)は「帰国の際、憲兵の検閲を受けて削除された」とみる。 黒塗りの後はこう続く。「世界大戦の時、巴里(ぱり)には処女は一人もいないと本で読んだことがあるが、自分らのいた南京もそういえないことはない」「自分は正月を迎えるごとに南京を思い出すだろう。それほど南京の街町は自分の脳裏に焼き付けている」 南京攻略戦は、錦が所属した陸軍16師団などが中心となった。16師団長は南京警備司令官として「峻烈(しゅんれつ)な残敵掃討」を命じた。 錦の軍隊手帳では「37年12月2日から12
2011/08/19 リンク