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『ああ、3月10日(改訂版)』
2007年6月に亡くなった在日コリアンの英語教育の重鎮・キム・ハノ先生の近況や、文学作品、過去のエピソ... 2007年6月に亡くなった在日コリアンの英語教育の重鎮・キム・ハノ先生の近況や、文学作品、過去のエピソードなど、息子である管理人が紹介していきます。 太平洋戦争が終盤に入った頃のこと。 私は東京の下町に育ち、大空襲に見舞われた。 一九四五年三月十日、午前二時か三時頃のまだまっ暗な時だった。 いつものように空襲警報が解除されたと思う間もなく再び空襲警報のサイレンが鳴り響いた。 時すでに遅し。 三百二十五機の米軍B29爆撃機は日本の戦闘機がその十分の一ほどにしかならない大きさで果敢に体当りをするが問題にせず整然とじゅうたん爆撃を開始。浅草の繁華街から向島・本所一帯は爆弾とM69焼夷弾のるつぼと化した。 サーチライトと照明弾の明りでそれらが雨あられと落下して来るのが視野に映る。なにしろほとんどが木造家屋であったため、ひとたまりもない。 メラメラとあちこちで火の手が上り、百五十キロ爆弾がヒューヒュ