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「信じるという装置=宗教」の「有効性」について - 退屈日記
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「信じるという装置=宗教」の「有効性」について - 退屈日記
くもりときどき晴れ。暑さはそれほどでもなく。 渡辺照宏「涅槃への道」を途中まで読む。 八十歳で入滅... くもりときどき晴れ。暑さはそれほどでもなく。 渡辺照宏「涅槃への道」を途中まで読む。 八十歳で入滅したという仏陀のお話を パーリ語の「涅槃教」を元に英語・ドイツ語・スペイン語訳も参考にして語る内容。 「人間」が「動物化」しつつあるのなら 「宗教」がもう一度役に立つのかもしれないと思って参考までに読んでいる次第。 本来望ましいのは「宗教」を「過去のもの」にすることだけれど 如何せん人々の「理性」や「言語能力」には期待できそうもない。 むしろ「読解能力」は下がる一方だと思われもするので それならいっそどこかに「絶対者」を置いて「信仰」という形式を生かすのもアリかと。 今のところ興味深いのはキリスト教・イスラム教同様 仏教においても「地獄に堕ちる」という共通点があること。 現代のわれわれにとって「地獄に堕ちる」ことの「リアル」はさほどでもない。 それに代わる「リアルな恐怖」を生み出す「設定」はど