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播磨坂と復興院
ところでこの「環3通り」とは、皆さんよく御存じの環7みたいに東京に計画された環状道路の1つで、環状3... ところでこの「環3通り」とは、皆さんよく御存じの環7みたいに東京に計画された環状道路の1つで、環状3号線の一部なのです。このわずか400mの道路は、その名残の道路なのです。 関東大震災(大正12(1923)年9月1日、死者・行方不明者は10万5千人以上)の後、帝都復興事業として復興院の後藤新平を総裁として当時の東京都市計画区域(ほぼ現東京23区の範囲)を対象として系統的な復興計画を決定しました。 この時、現在の東京の放射道路と環状道路の枠組みが決まり、東京から四方へ延びる放射道路と、東京駅を中心とする5本の環状道路(環1から環5)を、またその外側に3本の環状道路(環6から環8)を配置することになりました。 ですが、震災で打撃を受けた下町地区を対象とした帝都復興事業計画が優先され、まともな道路整備には至りませんでした。 その後の第2次世界大戦でもそれを引き継いだのですが、計画の再検討が閣議決