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いま、あらためて教養の意味を考えない ◆ 水曜日の湯葉141|柞刈湯葉
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いま、あらためて教養の意味を考えない ◆ 水曜日の湯葉141|柞刈湯葉
いま「教養」の意味を考えるのがブームだ。より詳細に言うと、山月記のセリフのような学校系ミームを「... いま「教養」の意味を考えるのがブームだ。より詳細に言うと、山月記のセリフのような学校系ミームを「教養」と呼ぶ人たちに対して「おまえのそれは教養じゃない」というマウント合戦をするのがネットの一部で流行っているらしい。 この流行は初デート・サイゼリヤ論争と同じで周期的に起きるし、僕も以前「教養とは何か」の自分なりの定式化を試みて、以下のような定理を考えたことがある。 教養の不可能定理 ある知識を「教養である」と証明することはできない。 その証明 教養は「その知識がある者・ない者」を社会的に区別することが目的だが、「教養と証明された知識」があれば即座に大衆に普及してしまい、階層を区別する指標として機能しないため。 うむ。これは結構気に入っているので、今回あらためて「教養とは何か」とか考えるのはやめよう。この手の言葉はだいたい意味が曖昧だし、議論といっても結局は趣味の問題にしかならない。そのかわり