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昭和基地は何故南極大陸に作らなかったのか - OKWAVE
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昭和基地は何故南極大陸に作らなかったのか - OKWAVE
戦後最初の観測船は、海上保安庁の「宗谷」でした。戦争で大方の船舶を失った日本は、当時南極観測用の... 戦後最初の観測船は、海上保安庁の「宗谷」でした。戦争で大方の船舶を失った日本は、当時南極観測用の砕氷船建造の余裕がありませんでした。そこで大戦にも活躍した「宗谷」の出番となったのです。勿論砕氷船では有りませんが、可能な限り改装をして出航しました。当時は海氷も厚く、基地を設営するのには大変な苦労が必要だったのです。そして敗戦国の日本は、殆ど資料のない南極銀座のアルゼンチン側の反対を観測地点として割り当てられたのです。 海岸線ですらはっきりしない大陸沿岸で、貧弱な装備で遥か沖合いから雪上車で荷物を運ぶのです。第一回の観測では、オングル島が目一杯の所だったのです。それが証拠に、越冬隊を収容するのに精一杯で、樺太犬を置き去りにしたり、外国の砕氷船に2度にわたり救助されたりしました。二回目からは、資材運搬にヘリの利用が始まりましたが、それでも海氷にしばしば阻まれたのです。こんな苦労を経て、「ふじ」が