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歴史のアイロニー――岡倉天心覚書(その2) - qfwfqの水に流して Una pietra sopra
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歴史のアイロニー――岡倉天心覚書(その2) - qfwfqの水に流して Una pietra sopra
「なにがしという人間についての覚え書は、当のなにがしが取るに足らぬ人間であっても一般的な意義を持... 「なにがしという人間についての覚え書は、当のなにがしが取るに足らぬ人間であっても一般的な意義を持つ。ただしこの場合は、覚え書をつくる方の人間が取るに足る材でなければならない。正反対にではないが、なにがしという人間がしかるべき人物である場合は、覚え書をつくる方が、力、徳、ともに不足していてもそれがやや一般的な意義を持つ。」 前回書いた岡倉天心にかんする覚え書は言うまでもなく後者であるけれども、「やや一般的な意義を持つ」かどうかは疑わしい。そこにはなんら独自の考えも新しい知見も含まれていないからであって、仮に聊かなりとも意義を持つとすればそれは一般的な意義ではなくきわめて私的な意義にちがいない。上に掲げたのは中野重治の「メモランドム」という小文の冒頭で、竹内好評論集第三巻『日本とアジア』(筑摩書房)の月報に書かれたものである。 中野は「ただし私は、竹内好はしかるべき人物だけれども、私という人間