エントリーの編集
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた」(梶井基次郎)【漱石と明治人のことば221】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた」(梶井基次郎)【漱石と明治人のことば221】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時... 今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。 【今日のことば】 「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた」 --梶井基次郎 梶井基次郎の珠玉の名短篇『檸檬』の書き出しである。 梶井は明治34年(1901)大阪生まれ。少年時代から音楽と水泳を好んだ。中学卒業前には漱石や鴎外にも親しんでいたが、文学熱はなく、京都三高に入学したときの専攻は理科甲類だった。三高の寄宿舎で中谷孝雄、飯島正といった文学青年と同室となって、志望が変わる。理科の優等生グループとは次第に疎遠になり、文学青年たちとのデカダンな生活に溺れていく。詩や小説の創作をはじめたのも、同じ頃だった。 三高卒業後、東京帝国大学の英文科に進学。中谷孝雄、外村繁らと同人雑誌『青空』を創刊した。のちには飯島正や三好