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宇波彰現代哲学研究所 書物の批評:仲正昌樹著『ヴァルター・ベンヤミン』(作品社)について 権 安理
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宇波彰現代哲学研究所 書物の批評:仲正昌樹著『ヴァルター・ベンヤミン』(作品社)について 権 安理
これは書物の“批評”である。批評について、ベンヤミンは次のように言っている。「批評とは、作品の解体... これは書物の“批評”である。批評について、ベンヤミンは次のように言っている。「批評とは、作品の解体=解消における完成である」。 はじめに『翻訳者の課題』ありき――仲正昌樹氏によるこのベンヤミン批評=ベンヤミン論で、最初に『翻訳者の課題』が取り上げられているのは注目に値する。内容的にも、ほぼ3分の1がこの書の読解に当てられている。それだけ重視されているのだろう。 そしてその理由は、仲正氏がベンヤミンの思想の要点を次のように見ていることによる。「他者が書き残した言語……を『解釈』するという行為が哲学的にどういう意味を持つか、また哲学自体が言語を媒体として営まれていることについてどう考えるのか」(14頁)。したがって必然的に、ベンヤミン≒仲正氏は翻訳≒解釈の目的や可能性の条件を問い、その関心は究極的にはメタ言語的なものへと向かうことになる。特殊言語ではなく、「神の言語・純粋言語」の問題である。仲