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東京国立博物館
紹興(浙江)の裕福な商家に生まれた趙之謙(ちょうしけん)は、少年の頃に家産が傾き、貧困を余儀なく... 紹興(浙江)の裕福な商家に生まれた趙之謙(ちょうしけん)は、少年の頃に家産が傾き、貧困を余儀なくされました。趙之謙は書画・篆刻で生計を立てながら勉学に励み、31歳で郷試(きょうし、科挙の1次試験)に第3席で及第します。ところが、この頃から太平天国の乱は熾烈(しれつ)を極め、趙之謙は温州(浙江)や福州(福建)に避難するものの、紹興の自宅は焼失、妻と娘も世を去ります。家族を失った絶望の果てに、趙之謙は号を「悲盦」とあらためます。時に34歳のことでした。翌年、趙之謙は会試(かいし、科挙の2次試験)を受験するため北京に赴き、そこで胡澍(こじゅ、1825~72)・沈樹鏞(しんじゅよう、1832~73)・魏錫曾(ぎせきそう、1828~1881)ら同好の士を得て、当時脚光を浴びていた金石学に没頭します。しかし、会試にはことごとく失敗、ついに高級官僚の途を断念します。44歳の時、地方官として江西に赴任しま