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「河東一乱」の経過
「河東一乱」(かとういちらん)とは、天文6年(1536)から同14年(1545)に起こった、今川義元と北条氏... 「河東一乱」(かとういちらん)とは、天文6年(1536)から同14年(1545)に起こった、今川義元と北条氏綱・氏康との争いである。 「河東一乱」の名は、当時の文書に実際に記された言葉で、「河東」とは、富士川より東、という意味である。駿河国のうち、主に、富士川より東の地域で抗争があったことから、このように呼ばれた。 この「河東一乱」は、いわゆる「甲相駿三国同盟」に至るまでの、戦国大名今川氏、武田氏、後北条氏(北条氏)の関係の変化を考える上で、非常に重要な位置づけを担っている。今回は、この「河東一乱」の経過を詳細に追うこととした。 目次 研究史 「河東一乱」前の政治状況 東国の政治状況 花蔵の乱 「河東一乱」の経過 「河東一乱」の勃発 「河東一乱」の経過 後北条氏の駿河国侵攻(天文6年) 天文6年7月から同13年までの動向 北条氏の動き 武田氏の動き 今川氏の動き 今川義元の反撃(天文13年