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アカデミア青木の「懐かしデータで見る昭和のライフ」
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アカデミア青木の「懐かしデータで見る昭和のライフ」
・食糧難の時代に 戦後の食糧難の時代、不足する米を補うためにサツマイモが配給された。来る日も来る日... ・食糧難の時代に 戦後の食糧難の時代、不足する米を補うためにサツマイモが配給された。来る日も来る日も食卓には芋が並び、そのため今日サツモイモを見ると「サツマイモは一生分食べた」と顔をしかめる高齢者も多い。 表1の「サツマイモの生産と用途」を見ると、昭和20年の生産高は389万6000トン。意外と少ないようにも思えるが、空き地や自宅で作っていた分は統計から除外されているからだろう。サツマイモは昭和25年4月まで統制下にあった。 当時、東京に近い川越や千葉県西部などの産地ではサツマイモを専ら食用として出荷していたが、東京から離れた海上地方ではサツマイモの澱粉から水飴を作って利益を上げた。その中心となったのは、飯岡町である。そもそも、ある農家が都会からの食糧買い出し人に芋を煮詰めて麦芽を加えて作る「芋飴」を分けてやったところ非常に喜ばれ、大量製造を求められたのがきっかけという。 昭和20年末に少