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家督巡り切腹 教養の名君~豊臣秀次 : 新おとな総研 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
武力、知力、権謀術数渦巻く戦国の世に知略で立ち向かった武将たち。その素顔と実力を小和田哲男・静岡... 武力、知力、権謀術数渦巻く戦国の世に知略で立ち向かった武将たち。その素顔と実力を小和田哲男・静岡大名誉教授が紹介します。 豊臣秀吉の姉の子で、肉親の少ない秀吉にいろいろな場面で使われ、結局は悲劇的な最期をとげたことでも知られている。 秀吉は近江(滋賀県)の浅井(あざい)長政を攻めたとき、長政家臣の切り崩しにあたり、重臣の一人だった宮部継潤(けいじゅん)の養子に秀次を差し出した。のち、この養子関係は解消され、今度は、秀吉が阿波(徳島県)の三好康長を取り込むときに、康長の養子となっている。 文化人大名だった三好康長の影響を受け、文化面では、古典籍の保存と修復、芸能の育成などみるべき功績を残した秀次であるが、武将としての資質という点では、秀吉やその弟秀長にはるかに及ばなかった。 天正12年(1584年)の尾張(愛知県)小牧・長久手の戦いでは、総大将として1万6000の兵を率いて出陣しながら、大敗
2014/09/11 リンク