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武家家伝_畑氏
デカンショ節で知られる丹波篠山の東北に瀬利という在所があり、戦国時代、そこに八百里城があった。 中... デカンショ節で知られる丹波篠山の東北に瀬利という在所があり、戦国時代、そこに八百里城があった。 中世、瀬利を含む一体は宗我部荘、のちに畑荘と呼ばれる荘園であった。畑氏は宗我部荘を拠点とし、 荘内の神南備山として崇敬された八百里山に城砦を構え、勢力を拡大していったのであった。 そのルーツは、南北朝時代に新田義貞に仕えて有名な畑六郎左衛門時能の子孫だという。 畑六郎左衛門時能は、篠塚伊賀守・粟生左衛門・亘理新左衛門と並んで新田義貞四天王の一人に数えられる武将である。義貞に従って各地を転戦し、延元二年(1337)七月、義貞が藤島の戦いで戦死したのちは、脇屋義助に従って坂井郡黒丸城、千手寺城、鷹栖城を転戦、足利方の斯波高経と激戦を繰り返した。しかし、南風は振るわず南朝方の諸城は次々と攻略され、暦応四年(1341)六月には大滝城が陥落した。残るは時能が拠る鷹巣(高栖)城だけとなり、翌七月、斯波高経・
2012/04/15 リンク