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細雪に関するpirachanのブックマーク (89)

  • ベアテ・シロタ・ゴードンさんロングインタビュー

    「あの日」を回想して思うこと。 GENERATION TIMES編集長 伊藤剛 実に6年ぶりに「あの日」のインタビュー原稿を読み直しました。読み終わって心の中に浮かんだのは、「感謝」と「後悔」という二つの言葉。感謝というのは、言うまでもなく、見ず知らずの自分に対して、とても素直に、時に笑いも交えながら、最後は思いの丈をぶつけるかのような熱を持ってベアテさんが話してくれたこと。後悔というのは、もう二度と彼女に質問をすることができないという圧倒的な事実に対して。今なら、今だからこそ、唯一の生き証人であったベアテさんに聞いておくべきだったことがまだまだある気がしてなりません。あの日の自分の未熟さへの強い後悔です。 ベアテさんにお会いしてから、今もなお余韻のように僕の心象風景として残っていることは、彼女の「ふつうさ」です。それは、僕自身が勝手に抱いていた「GHQ」とか「憲法」というものへの強い偏見

    ベアテ・シロタ・ゴードンさんロングインタビュー
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    pirachan 2016/04/03
    ベアテ・シロタ・ゴードンさん。『細雪』の有名なシーンは、三姉妹がこの方の父、レオ・シロタの音楽会へ行く時のものとか。 それはそれとして、このインタビューは読みごたえがありますね。
  • 昭憲皇太后 - Wikipedia

    昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう、1849年5月9日〈嘉永2年4月17日〉 - 1914年〈大正3年〉4月9日)は、日の第122代天皇・明治天皇の皇后。諱は勝子(まさこ)、のちに美子(はるこ)。お印は若葉。旧名は一条 美子(いちじょう はるこ)。 欧州の王侯貴族・貴婦人と対峙できるよう近代女子教育を振興し、社会事業の発展、国産の奨励等に尽力した。皇后として史上初めて洋装をした。明治天皇崩御に伴い皇太后となり、1914年(大正3年)崩御(64歳)。嫡として明治天皇の側室(柳原愛子)が生んだ嘉仁親王(大正天皇)を養子とした。 生涯[編集] 誕生から成婚、皇后立[編集] 嘉永2年(1849年)4月17日、従一位左大臣・一条忠香の三女として誕生。生母は側室の新畑民子[注釈 1]。右大臣・一条実良(1835-1868年)の妹。徳川慶喜の婚約者であった千代君[注釈 2]、疱瘡のため千代君に代わっ

    昭憲皇太后 - Wikipedia
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    pirachan 2015/12/15
    鳳凰は、皇后を象徴する瑞獣なのか! 『春琴抄』のしげ女や『細雪』の幸子絡みで興味深い。さらに、パイプの件に注目。『細雪』に唐突に埋め込まれたシーン、これは何? と思っていたが、ようやくつながった。
  • 神戸・大日女尊神社(野寄)。 - 神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

    では、古くから神道と仏教の融合が行われてきました。奈良時代になると、仏と神は同一のもので、地である仏様が我が国の衆生を救済するために神々の姿となって現れたのだという地垂迹説が唱えられるようになります。また、平安末期には地垂迹説の流れを受けて理論的に神道を説明する教えがあらわれ、真言密教系の両部神道では、金剛界・胎蔵界の曼荼羅の大日如来尊=伊勢神宮の内宮・外宮の祭神(天照大御神・豊受大御神)という説が唱えられたりしました。 しかし、明治維新がこの流れを大きく変えます。復古神道を政治理念に国家の運営を図った明治政府によって神仏分離令が出され、神社域からの仏教的要素の排除が推進されました。その結果、全国で廃仏毀釈運動が起こり、貴重な仏像や建造物が次々と破壊されていくこととなります。このような時代背景を受け、廃仏毀釈の流れから村のご尊である大日如来を守り、さらに村としても神社を建てるこ

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    pirachan 2015/10/04
    やっぱり妙子は(^^)
  • 本住吉神社|兵庫県神社庁 神社検索

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    pirachan 2015/09/30
    『細雪』関連でチェック。
  • 倚松庵 - Wikipedia

    倚松庵(いしょうあん)は、兵庫県神戸市東灘区に建つ歴史的建造物。文豪谷崎潤一郎の旧居。ここで執筆された代表作にちなんで「『細雪』の家」とも呼ばれる。庵号は夫人の名前「松子」に因む。 1929年(昭和4年)に当時の武庫郡住吉村反高林1876-203に建てられた和風木造建築で、谷崎潤一郎は1936年11月から1943年11月まで居住した。なお、谷崎が居住した時期の家主は極東選手権競技大会サッカー日本代表の後藤靱雄であった。 1986年に、倚松庵が所在する住吉川畔に神戸新交通六甲アイランド線の橋脚建設計画が持ち上がると、専門家から計画敷地の脆弱性の指摘があったほか、美しい景観が破壊されるとして住民訴訟が行われたが、1990年(平成2年)に神戸市は建設を強行し、倚松庵は同じ東灘区内の現在地に移築された[1][2]。これにより倚松庵周辺の景観は来とは違うものになったが、5年後に兵庫県南部地震が起こ

    倚松庵 - Wikipedia
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    pirachan 2015/09/30
    『細雪』。上本町本家、芦屋分家でなく、上本町本家、住吉分家ならまだわかりやすのだけれど。実際、谷崎は松子さんの姉妹を住吉の姉妹と書いているし、あ、『細雪』を書いた倚松庵が武庫郡住吉村にあったのだった!
  • 天照大神の后である瀬織津姫 : 天下泰平

    ※瑠璃(ruri)さんの描いた「瀬織津姫」 今週始めから3日間は、久しぶりに関西へと行ってきました。なぜ、いきなり関西というと、こうなった経緯を説明すると非常にややこしいので、また後日にお伝えしますが、まず結論から先に言えば、やはり今回の関西への旅は、目に見えない存在による大きな導きがあったのは間違いなく、そして人との出会いをはじめ、これから先の新時代を切り拓く、大きなヒントときっかけを与えていただいた旅であったと思います。 まだ整理がつかないほど、膨大な量の情報と体験をしており、また、少し時間が経たないと謎が解明されない内容も多々あるので、まずは行った先の写真などをはじめ、少しずつ共有できる情報をお伝えできればと思います。 ※六甲比命神社 まず、関西旅行の目的はいくつかあったのですが、その中でもメインの1つは六甲山にある「六甲比命神社」の参拝でした。 ここには「瀬織津姫」の墓があるともい

    天照大神の后である瀬織津姫 : 天下泰平
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    pirachan 2015/08/19
    『猫と庄造と二人のをんな』『細雪』等読解のためにブックマーク。
  • ニギハヤヒと物部氏  : 天下泰平

    ※ニギハヤヒ 「ニギハヤヒ」(Wikipedia) ※神武天皇と饒速日命(ニギハヤヒ)の関係 『日書紀』と『古事記』によると、神武天皇(イワレビコ)と饒速日命(ニギハヤヒ)の出会いのあらすじは次の通り。 「神武天皇(イワレビコ)は塩土老翁から、東方に美しい土地があり、天磐船で先に降りたものがいると聞く。そして彼の地へ赴いて都を造ろうと、一族を引き連れ南九州から瀬戸内海を経て東へ向かい、難波碕(現代の大阪)へたどり着く。その後河内国草香邑から生駒山を目指す。そこに土着の長髄彦(ナガスネヒコ)が現れたため戦うが苦戦する。神武は「日(東)に向って敵を討つのは天の道に反す」として、熊野(紀伊半島南端部)へ迂回し北上することにした。 菟田(奈良)に到達し高倉山に登ってあたりを見渡すと、八十梟帥が軍陣を構えているのが見えた。その晩神武の夢に天神が現れ「天神地祇を敬い祀れ」と告げる。その通りにすると敵

    ニギハヤヒと物部氏  : 天下泰平
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    pirachan 2015/08/19
    『細雪』読解のためにブックマーク。貞之助は饒速日命、妙子(が産んだ子)は瀬織津姫、土地の古老は塩土老翁という仮説を抱いています。一連の上町台地物を考えるうえでも興味深いです。
  • 原田宗輔 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "原田宗輔" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年8月) 酒井家上屋敷跡 千代田区、丸の内 原田 宗輔(はらだ むねすけ、元和5年(1619年) - 寛文11年3月27日(1671年5月6日))は、江戸時代前期の武士。仙台藩重臣。奉行職[注釈 1]。原田宗資の子。伊達騒動(寛文事件とも)当事者の一人。通称は甲斐で、原田甲斐(はらだ かい)として知られる。 経歴[編集] 元和5年(1619年) 仙台藩着坐・原田家に原田宗資の長男として陸奥国柴田郡船岡城[注釈 2]で生まれる。幼名は弁之助。初めは雅楽(うた)と称した。母は元

    原田宗輔 - Wikipedia
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    pirachan 2015/08/11
    谷崎作品関連でブックマーク。小中村清矩とお春どんと三牧等
  • 長田神社 - Wikipedia

    長田神社(ながたじんじゃ)は、兵庫県神戸市長田区長田町に位置する神社。式内社(名神大社)で、旧社格は官幣中社。廣田神社・生田神社とともに神功皇后以来の歴史を持つ名社とされる。生田神社・湊川神社とともに神戸を代表する神社の一つ。 祭神[編集] 事代主神(於天事代於虚事代玉籤入彦厳之事代主神(あめにことしろそらにことしろたまくしいりひこいつのことしろぬしのかみ))を主祭神とする。殿瑞垣内に天照大御神・応神天皇を祀る。 歴史[編集] 概史[編集] 『日書紀』によると、神功皇后摂政元年(201年)2月、神功皇后が三韓征服後、新羅から難波に帰還する途中、武庫の水門(現在の駒ケ林あたりといわれる)で船が進まなくなったので占ったところ、事代主の神より「吾を長田国に祀れ」と神託を受け、創祀されたという。この由緒から、平成13年(2001年)には鎮座1800年を祝った。太古から長田神社と呼ばれていたが、

    長田神社 - Wikipedia
  • 廣田神社 - Wikipedia

    廣田神社(ひろたじんじゃ、広田神社)は、兵庫県西宮市大社町にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社庁の別表神社。 祭神[編集] 主祭神 - 天照大神荒魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかいつひめのみこと))。伊勢神宮内宮の第一別宮荒祭宮祭神と同体。 脇殿神 - 住吉大神、八幡大神、武御名方大神、高皇産霊神。 歴史[編集] 日書紀に当社の創建のことが書かれている[1]。神功皇后の三韓征伐に出発する際、天照大神の神託があり、和魂が天皇の身を守り、荒魂が先鋒として船を導くだろうと言った。皇后の留守の間に忍熊王が神功皇后とお腹の中にいる皇子(後の応神天皇)を亡きものにしようと明石で待ち伏せていた。戦いを終え、帰途それを知った神功皇后は、紀淡海峡に迂回して難波の港を目指した。しかし、難波の港が目の前という所で、船が海

    廣田神社 - Wikipedia
  • 生田神社の由緒 │ 生田神社 - 神戸市中央区

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    pirachan 2015/07/27
    稚日女尊は、我国における最高神太陽神と崇められ伊勢神宮内宮にお祀りされる天照大神の和魂あるいは妹神と伝えられ、稚くみずみずしい日の女神様であり、物を生み育て万物の成長を御加護する神様です。
  • 西宮神社 - Wikipedia

    西宮神社(にしのみやじんじゃ)は、兵庫県西宮市社家町にある神社。旧社格は県社で、現在は神社庁の別表神社。 全国に約3,500社あるえびす神社の総社(名称「えびす宮総社」)である。地元では「西宮のえべっさん」と呼ばれる。 社名 「西宮」という名称の起源について以下のように諸説ある。 えびす神を最初に祀ったと伝わる鳴尾[1]や古代の先進地域である津門から見て「西の方の宮」という説 京都から見て貴族の崇敬篤き廣田神社を含む神社群を指して「西宮」と称していたが、戎信仰の隆盛と共に戎社を「西宮」と限定して呼ぶに至ったという説 「西宮」とは上述の延喜式内社の大国主西神社の事を指すとの説 祭神 えびす大神(西宮大神・蛭児命) - 第一殿・主祭神。 天照大御神 - 第二殿。 大国主大神 - 第二殿、明治初年に配祀。 須佐之男大神 - 第三殿。 祭神の蛭児命は伊弉諾岐命と伊弉諾美命との間に生まれた最初

    西宮神社 - Wikipedia
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    pirachan 2015/07/27
    “神人として人形繰りの芸能集団「傀儡師」が境内の北隣に居住しており、全国を巡回し、えびす神の人形繰りを行って神徳を説いたことにより、えびす信仰が全国に広まった。”
  • 芦屋神社 - Wikipedia

    芦屋神社(あしやじんじゃ)は、兵庫県芦屋市東芦屋町にある神社。祭神である天穂日命(アメノホヒノミコト)は縁結びの神として崇敬を集めている。また、氏神として、芦屋の地の守り神として地元の人々の信仰を集めている。 概要[編集] 芦屋神社の主祭神の天穂日命は天照大神と須佐之男命が誓約した時に生まれた第二子とされる神である。出雲の国譲りの際、先遣隊として派遣され、現在の六甲山の頂上にある磐座(六甲カンツリーハウスの中の小高い丘にある)に降臨したと伝えられ、そこから出雲へ向かったという。後に天穂日命を崇敬する人々がその山深い険しい場所から現在の場所に社地を遷し、社を建て下の宮として祭祀したのが創始とされる。天穂日命が縁結びの神とされることから神前結婚式が執り行われている。 境内には原木に近いとされるオガタマの木や樹齢200〜300年と伝えられるヤマモモの木、市花でもあるコバノミツバツツジがある。古く

    芦屋神社 - Wikipedia
  • 西国街道 芦屋・茶之町から本住吉神社

    相変わらず、街道距離よりウロチョロ距離の方が多くなっています。 道順や分岐などの写真、所要時間などは参考程度にして下さい。 写真をクリックして頂くと、大きくなります。 平成26年4月1日 西国街道は、茶屋之町北交差点の少し西寄りから、東灘区田中町の三王神社まで、国道2号と重なります。 国道南側の歩道を、約330m行くと、業平橋東詰です。

    西国街道 芦屋・茶之町から本住吉神社
  • 伊達千広 - Wikipedia

    伊達千広 陸奥宗光が伊達宗広を顕彰して建立した「夕陽丘阡表」(地蔵の右) 傍らに「夕日岡(夕陽丘)命名の地」碑がある。(大阪市天王寺区夕陽丘町) 伊達 千広(だて ちひろ、享和2年5月25日(1802年6月24日) - 明治10年(1877年)5月18日)は、幕末の紀州藩士で国学者。名は宗広(むねひろ)。通称は藤二郎、号は自得。陸奥宗光の実父であり、また史論書『大勢三転考』の著者である。 来歴[編集] 享和2年(1802年)、紀州藩士・宇佐美祐長の息子として生まれ、後に叔父の伊達盛明の養子となる。居大平の許で国学を学ぶ。12歳で家督を相続し、3年後の文化13年(1816年)には藩主・徳川治宝の小姓となる。治宝に才能を愛されて18歳で監察に任じられ、以後、勘定吟味役から同奉行、寺社奉行兼務へと昇進して500石取りとなる。家老・山中筑後守を補佐し、「和歌山派」の中心人物として藩政改革を推進

    伊達千広 - Wikipedia
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    pirachan 2015/07/17
    『細雪』等、谷崎作品読解のためにブックマーク。
  • 夕陽丘 - Wikipedia

    夕陽丘(ゆうひがおか)は、大阪大阪市天王寺区西部の汎称地名であり、夕陽丘町を中心とした、上町台地西側の地域を指す。具体的には生玉町、生玉寺町、夕陽丘町、伶人町、逢阪(1丁目)、下寺町の地域一帯あたりを指し、「夕陽丘風致地区」に指定されており、緑風景が維持されている。広域的には東側の生玉前町、上汐(4~6丁目)、六万体町、南側の逢阪2丁目辺りも含まれる。またこの項では、夕陽丘町についても述べる。 上町筋よりも東の上町台地東側(上町、北山町、四天王寺、小宮町辺り)にも「夕陽丘」と名の付く施設は幾らか存在するが、これらの地区は夕陽丘地区には通常は含めない。 かつては夕日岡(ゆうひのおか)とも呼ばれていた。(後述) 歴史[編集] 家隆塚(伝 藤原家隆墓、夕陽丘町5) 1236年(嘉禎2年)に歌人・藤原家隆が、浄土教の教えである「日想観」を修するためにこの地に移り住んで終の地とし、住居として『夕

    夕陽丘 - Wikipedia
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    pirachan 2015/07/17
    『細雪』等、谷崎作品読解のためにブックマーク。
  • サービス終了のお知らせ

    サービス終了のお知らせ いつもYahoo! JAPANのサービスをご利用いただき誠にありがとうございます。 お客様がアクセスされたサービスは日までにサービスを終了いたしました。 今後ともYahoo! JAPANのサービスをご愛顧くださいますよう、よろしくお願いいたします。

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    pirachan 2015/07/11
    『細雪』等、谷崎作品関連でブックマーク。
  • 大阪の古建築

    大阪とその周辺地域に残る近世・近代建築の紹介。 ACHTUNG!このサイトの著作権はkfschinkelが保有しています。 写真・文章の無断転載はご遠慮下さい。Copyright© kfschinkel 2017-2022. All Rights Reserved by kfschinkel

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    pirachan 2015/07/11
    『細雪』読解のためにブックマーク。
  • 入江相政(いりえすけまさ)の手紙文字 | 和玄メモ

    手作り住所印のお店「寧洛菴」・篆ゴム印(てんごむいん)の「和玄堂」店長:中谷和玄が書いたエッセイです。 書画の話や奈良・京都の情報をつづります。文字の書き方講座もあるよ。 2009年5月28日の和玄メモで、財前謙氏編著の『手書きのための漢字字典』を紹介し、 その財前氏は、 書道雑誌『墨』で連載を持たれているとも書きました。 7月1日発売の『墨』199号でのテーマは、 「羞(は)じて為さず」です。 志賀直哉の小説『焚火』と、 入江相政(いりえ・すけまさ、1905-1985)筆の 歌碑文字に先ず触れられています。 ↑群馬・赤城山大沼のほとりに立つ志賀直哉氏 ↑群馬・赤城山のつつじ 『焚火』は、 群馬県赤城山でのできごとを小説にしたものであり、 この赤城山覚満淵には、 入江相政筆の歌碑(※昭和天皇御製を入江相政氏が書いたもの) がたっているという 絶妙なつながりで書論が始まります。 ↑覚満淵 ↑

    入江相政(いりえすけまさ)の手紙文字 | 和玄メモ
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    pirachan 2015/05/29
    これはこれは! 入江相政から谷崎松子宛の書簡。昭和22年の昭和天皇との会見メンバーを中心に以前作った系図から浮かび上がるものの間のいろいろなピースが埋まる。
  • はきもの 阿波屋

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    pirachan 2015/03/24
    谷崎潤一郎著『細雪』に登場。