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正徳の治
5代将軍綱吉の死後、嗣子がなかったので、甥の甲府候徳川綱豊(つなとよ)が迎えられて6代将軍家宣(... 5代将軍綱吉の死後、嗣子がなかったので、甥の甲府候徳川綱豊(つなとよ)が迎えられて6代将軍家宣(いえのぶ)となり、ついでその子の家継(いえつぐ)が7代将軍となった。この時代家宣の侍講であった朱子学者木下順庵門下の新井白石(あらいはくせき)[1657〜1725]が、能役者から側用人となった間部詮房(まなべあきふさ)[1667〜1720]とともに登用されて文治主義の政治を行なった。この政治を時の年号にちなんで正徳の治という。 ◆文治政治 白石はまず、悪政として評判の良くなかった生類憐みの令を廃止し、柳沢吉保を引退させた。「武家諸法度」を改め、仁政をすすめる一方、幕府の典礼・儀式を整えて公家風にし、閑院宮家(かんいんのみやけ)の創設を認めて朝幕間の融和を計った。さらに、伝馬制度を改めるなどして農民の負担を軽減し、百姓一揆に際しても領主に暴政を戒めるなど、農政にも意を用いた。また、1711(正徳1