(※この記事は性暴力について言及されています。性暴力に関して思い出したくない記憶がある方は、見ないことをお勧めします。) 最近「性嫌悪」という言葉を知りました。きっかけは、Twitterのプロフィールに「性嫌悪」と表記されている人のツイートに共感することが多々あったとか、そのくらいのことです。そんなこともあり「性嫌悪」という言葉について少しだけ調べてみたら、自分の黒歴史や、現在の自分についてよく理解できてしまったので、そのことについて書こうと思った次第です。そしてそれを自覚できたことは、自分にとって割と辛いことであったのでした。 僕が性について考えざるを得なくなったのは、2年前にある人と出会ってしまったからです。最高にひきこもりを極めていた2年前の僕は、Twitterで「自分の後ろに常にもう一人の冷めた自分がいて、そのせいで何をしても楽しくないんだー!」と、離人的な苦しみをツイートしまくっ
本を読みながら生活をしていると面白いことが起きる。僕は普段、読む本を選ぶとき明確な理由があって選ぶことは少ない。ただ単に題名で惹かれたり、何かの本の中で引用されていたのが気になったり、自分の興味ある人が好きだと言っていたからだったり、そのくらい曖昧な理由で次に読む本を選んでいる。 それにも関わらず、「自分が今まで読んできた本たちには必然的な繋がりがあったのだ!」、とか、「自分がこういう本を読むということは、自分の過去の人生の経験から既に決まっていたのだ!」、とか、少し神秘的なことを思ってしまいたくなるような感覚が、突然どこからともなく降ってくることがある。 精神科医で精神病理学を専門としている加藤敏さんの人の絆の病理と再生―臨床哲学の展開はまさしく僕にそんな感覚を味あわせてくれた本である。特に第四章の『シモーヌ・ウェイユにおける摂食障碍と「無の思想」』を読んだ時にそんな感覚になった。この章
いまもまだ、若いと言える年齢だとは思うけれど、もっとずっと若かった頃、わたしは色々なものが怖かった。 一人でいるのが怖くて、人と話すのが怖くて、自分がつまらない人間だと見破られるのが怖かった。 不安定な心と醜い容姿が嫌で、周囲にどう評価されているのか知るのが恐ろしくて仕方がなかった。他人が持っているものを自分が何も持っていないように思えた。 自分にはなにか特別な才能や魅力があると信じたくて、そうである証拠を必死で探しながら、すがるような気持ちでいることを知られるのが恥ずかしくてたまらなかった。 何かの結果が出て、自分が何者でもない、ちっぽけな人間であることを突きつけられたくなかった。 限界まで頑張って、結局なんてことなかったらいったいどうしたらいいのだろう? そんな気持ちからいつも私は逃げていた。どこかで手を抜く癖もあったし、そうしていればまだ夢を見ていられると半ば自覚していたし、そうでい
ブログ始めて丁度一年経つし(と言っても30記事くらいしか書いてませんが)、実家に帰省していて何だかやることも無く暇なので、過去の自分のブログの記事を読んでいました。 普通に赤面ものですよね。『なんでこんなくだらない個人的な悩みを堂々とネットで公開しているんだコイツは…』『きもい自意識曝け出しすぎだろ…』と後悔すること甚だしいです。 とは言うものの、その時の自分にとってはそれがとってもとっても切実な悩みであり、悩みをブログで公開することに何かしらの救いを求めていたわけであります。そしてそのことは確かに自分にとって一定の意味があったと思うので、どんな意味があったのかを振り返りながら書いていこうと思います。(どうせこの記事も後から読んで後悔するのでしょうが…。)そしてそれは無意味な人生と意味のある人生の違いを考えるうえで一つのヒントになると思います。 まず自分は大学に入ってから、ずっと自分の人生
昨日、姉の結婚式がありました。結婚式の前日に帰省したのですが、その時に精神科医で精神病理学を研究している加藤敏さんの『人の絆の病理と再生―臨床哲学の展開』を電車の中で読んでいました。その本を読むことで自分の性格ついて整理することができ、そして結婚式やそのための準備を通して自分と母親の関係についての認識も深まったように感じたので、そのことについて書いていこうと思います。 加藤敏さんは著書の序文の中で、『人間の基本的なパーソナリティとしてこれら三つのパーソナリティ構造に注意をはらうことは、人と人との絆を考えるうえでも生産的であると考える。』として、『人間のパーソナリティ構造には、①真・善・美に対し「自然な自明性」をもち、虚偽に満ちた俗世間を生きることが苦手な「統合失調スペクトラム」、②これと逆に俗世間に対し「自然な自明性」をもち、他人との(感情的な)共鳴性と協調性が豊かな「躁うつスペクトラム」
昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがいるのは、おじいさんとおばあさんがいない人に対して不謹慎だと思います。 おじいさんが山へ柴狩りに、おばあさんが川へ洗濯に行くと、川上から大きな桃がドンブラコドンブラコと流れてきました。 「ネタ乙。川上から大きな桃が流れてくるなんて普通ありえない」 家に持ち帰って桃を割ってみると、桃の中から赤ちゃんが生まれてきたことくらい私は小学生の頃から気付いてましたけど? 「桃から生まれたから、名前は桃太郎にしましょう」 「それは桃から産まれなかった人は桃太郎と名乗ってはいけないということか?」 すくすくと育った桃太郎は、ある日おじいさんとおばあさんに言いました。 「おじいさん、おばあさん。僕は鬼ヶ島へ鬼退治に行ってきます」 「そんなことよりきび団子の真実を知ってください!」 桃太郎が鬼ヶ島ヘ向かっていると、向こうから犬がやってきました。 「桃太郎さん桃太郎さん
最近のグラビアはAKB関連の不細工どもが増えてがっかりだが、AVにはむしろ美人が増えてきていると思う。大概の単体女優はAKBの誰よりも美人である。まぁそれは嬉しいことなのだが、同時に「なんでこんな美人な娘が、こんなことするのかね」とも思うのだ。 考えてみたのだが、これは恐らく、美人はちやほやされるが、そのちやほやされっぷりから推測される「美人の価値」と、金銭に換算される「美人の価値」との間に隔たりがあるからではないだろうか。 つまり、「美人」は小さいころから「不美人」よりも可愛がられ、えこひいきされ、大きくなると男性にはちやほやされ、女性からは羨望のまなざしを向けられる。また、TV番組やファッション雑誌、映画やイベントなど、あらゆる華やかな「価値のありそうな」場には「美人」が配置され、注目を浴びているのを目にする。 だから自然と、「美人であること」は、非常に価値があるものとして感じられる。
昨日は全国各地で在特会のデモとそのカウンターデモが行われたようです。 自分のアイデンティティのことを家で独りで考えてばかりで、社会運動的なものとは無縁の僕は、Twitter上でデモの様子を眺めていました。(左寄りの方の視点を通して) こんな感じのツイートです↓ 六本木に響き渡る「レイシスト帰れ!」のコール。カウンター抗議の人数が膨れ上がってきた。 pic.twitter.com/wWk3XYEw9F— space arrow (@uchunohate) 2014, 9月 23 怒涛の「レイシスト帰れ!」コール。六本木、反レイシズム・ヘイトスピーチカウンター抗議の人数が膨れ上がってきた。 現場は警察官も多く緊迫した状況。まもなく在特会のデモが出発する模様。 pic.twitter.com/IcUwMZKDfI— space arrow (@uchunohate) 2014, 9月 23 在特
はじめに 世の中のほとんどの読書論は「本は読まないよりも読んだ方がいい」、「本を読んだ方が教養が身につき考えも深く豊かになっていく」という考え方、言わば読書に対するある種の性善説を前提にしてきました。 僕もそういう考え方に従い、今までそれなりにたくさんの本を読んできました。「本を読むことで、いつかは自分も世間一般の人があまり考え着かないようなことを考え着くことができるようになるはずだ」。「いつかは自分も…」そう自分に言い聞かせながら自分なりの読書道を歩んできました。けれども、そういう考えに対して真正面から直滑降で向かってくる影があります。これは身構える必要がありそうです。 ショーペンハウエルの『読書について』は、読書が持つ昼の顔、つまり読書の効用については正面からは何一つ述べようとはしません。むしろ著者がこの本の中で何よりもまず読者の注意をうながそうとしているのは、本を読むことの暗黒面、読
突然ですが、今日はうつ病・うつ症状について体験者にしか書けないことを書き留めておこうと思います。 というのも最近、身近にうつ病やうつ症状の診断がくだる人が増えているのですが、どの人も「本当に自分はうつ病?」という認識であることが多いのです。世の中で言われているうつ病の症状のイメージと自身の状態が微妙にズレていること、元から頑張り屋の人が多いので「自分はまだ頑張れる」と思いこんでしまっている場合が多いことが原因かと思います。 けれども、私はそうやって「私って実はうつ病じゃないよね?」「もう治ったかも?」という勘違いをしていたところ、寛解に三年を要し、さらに何年もたった今でも後遺症に悩まされています。侮るべきではなかった、これはれっきとした病気なのだ!と気づいたのは最近のこと。 ネットで言われているような一般的なうつ病の症状(気持ちが沈んで涙が止まらない…食欲がない…睡眠がとれない…)といった
内田樹(うちだたつる)って知ってる?ひょっとしたら、今最も「影響力」のある思想家かもしれない。神戸女学院大学の教授をしてて、現在は退職して「凱風館」という道場をかまえている。思想家であり、合気道を修める武道家でもある。 凱風館です。合気道を習えるみたい。 内田樹の思想は好き嫌いが別れると思う。というより、受けつける人は受けつけるし、受けつけない人はまったく受けつけない種類のものだ。内田樹は25歳のときからずっと合気道に打ち込んでいて、身体感覚に根ざした発想で話を展開する。切り口や扱うトピックを変えながら、身体に染み込ませるように同じことを繰り返し言う。彼の本は、まるで道場に通って武道の練習をしているかのような読み心地なのだ。 内田樹を批判する人も多いが、そういう人の気持ちはわかる。内田樹は「科学的」とされる論の進め方をしていない。科学にとって大事なのは「反証可能性」で、理系だったら同じ実験
『アナと雪の女王』をGEOで借りて見ました。 最近読んでいたR.D.レインの『ひき裂かれた自己』と重なる部分が多かったと思いました。詳しいことはこちら↓ R.D.レイン『ひき裂かれた自己』から空虚な自分について考える。 - 空虚な人生を晒すブログ というわけで、『ひき裂かれた自己』に惹きつけて『アナと雪の女王』を考えていこうと思います。 ラストシーンまでネタバレをするので、お気を付け下さい。 幼少期、エルサは魔法の力により、アナを傷つけてしまった。アナはトロールの治療でケガが治ると同時に、エルサの魔法の記憶を消されてしまう。エルサはトロールに「魔法は美しいが大きな破壊も伴う」と指摘され、アナとの思い出が自分の攻撃性の発露として記憶される。 アナの怪我以降、エルサは魔法の力を両親以外誰にも知られないよう封じ込めるように命令される。部屋に一人で監禁されたような生活となり、アナとも関係が断たれて
R.D.レインの『ひき裂かれた自己』という本が大学の研究室にあったので読んでみました。ものすごい本でした。まさに自分のことが書いてある!と思いました。この本をもとに自分について整理したいと思います。 『ひき裂かれた自己』では、分裂病、もしくはそれに近い患者が体感している世界をどうにか論理的に言葉で表現しようとしている本です。分裂病は現在では統合失調症に当たります。 分裂病者よりも、分裂病質者という単語が頻出するので、分裂病に近いパーソナリティを持っている人について述べられている部分が多いと思われます。 最初に言っておかなければならないのは、レインが<普通>が正常で、分裂病が異常、という価値基準で論じているわけではないということです。むしろ<普通>が正常で分裂病が異常だと疑わない人の視線こそが分裂病を促進させてさえいるということを嘆いています。 序文でレインはこう述べています。 私が本書の中
「上野千鶴子さんの著書を読みたい」と思ってブックオフに行ったけれど価格の安いものがみつからず、ベストセラーになったという遙洋子著『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』を購入し、読んだ。 タレントである遙洋子の目から見た上野千鶴子の人となりを知れるエッセイであると同時に、(解説にも書かれていますが)フェミニズムの基礎を学びたい人のためのブックガイドとしても機能するような本だった。 芸能活動を続けながら3年間も大阪から東京に通い、膨大な文献を読み、身体に異変をきたすほど勉強をして上野千鶴子の課題をこなした著者には脱帽する。著者自身が「テレビを見ていてせつなくなる時がある。フェミニストを名乗る人物が、妖怪扱いされるときだ」と書いているが、フェミニストまたはフェミニズムには敵が多く、叩かれやすい。そこで発言するフェミニストは痛々しく見えるのだけれど、著者のようなタレントさんが影響力の強いテレビのような
俺は高校、大学、サークル、バイト先、会社とどこでも最初はイケメン扱いされる程度にはイケメンなんだ。ここは疑わないで欲しい。 それにポパイを読んでNBを履きこなすぐらいにはオシャレだ。ファッション誌のスナップにも2回出たことがある。 なので第一印象は悪くない。 でも中身は残念なんだ。 まず、童貞だ。 でも童貞なんて怖くて言えないんだ。だって、見た目は良いのに童貞だなんて、中身が酷いって言ってるようなものじゃないか。だから言えるわけないんだ。だから、嘘ついてるんだ。 最初は喜んでいた子が、次第に落胆してきて、こっちを蔑んだ目で見てくるのがつらいんだ 顔がいいのに変だとか、残念だとか言われるのが辛いんだ 勝手に期待すんじゃねえよクソブスが。 でも、期待されるって面では、美人もこんな気持ちなんだろうな、って思うんだ 美人なのに、みたいな。身勝手な期待されてるんだろうな。それで、落差があると、余計ひ
わたしは、正しいことを書いていない。 今、自分が思っていること、感じたこと、たどり着いたことについてしか書いていない。 だから、わたしの言うことに賛同できない人は多いと思うし、共感できない人も多いだろう。 でも、その一方で、わたしの書いていることは、正直だから、境遇が似ていたり価値観が似ている人にとっては、考えが整理できるものなんだと思う。 わたしが想像するよりもずっと遠いところまで、記事が広まってしまったので、つまり、わたしが読むだろうと思っていた人たちを越えて、広まったので、わたしの記事を肯定できない人、本来はきっと読みたくなかった人たちにまで記事が届いた。 商売だったら、これは喜ばしいことだ。 ひっかること、気に入らないこと、評判が良くないことは、それが好きなファン以外にも訴求力があった、ということの指標になるからだ。 でも、わたしの場合は商売じゃない。迷いながら、自分の気持ちをまと
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