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2008年1月12日のブックマーク (9件)

  • 嫌儲とWeb性善説 - 花見川の日記

    twitterにて嫌儲が少し話題になってたので、嫌儲の正当性のあるケースを考えてみる。 昔から自分の中で「Web性善説」と勝手に呼んでる構造がある。 WikiPedia辺りがわかりやすいと思うのだけど、「どんな種類の人間だろうと数を集めれば、場所を与えるだけでそれぞれの余暇を用いて、様々な専門的知識・知恵の集積が発露される。」と言われれば、ネットに多少詳しい人間ならピンと来ると思う。例を挙げると、先程のWikiPediaを含め、2chだとこんなことがタダで分かったり、ニコニコ動画だとこんなのがタダで見れたりする。(ニコニコ動画の作品はプロが余暇で作ったものらしい) で、ポイントはこの構造に金の流れが無いこと、もっと言えば金の流れが無いからこそ成り立っているという点。 WikiPediaに関して「金の流れ」を作って運営しようとすれば、余程うまくやらない限りコンテンツはおそらく全てダメになる。

    嫌儲とWeb性善説 - 花見川の日記
  • 『涼宮ハルヒ』のリアリティ - だべりんぐ部

    もちろん、じっさいにはハルヒみたいな性格はありえないんだけれど、かんでさんのいう通り、深いところでリアリティを感じるところはあります。 ハルヒのような人間性のもち主はいなくても、ハルヒと同じような孤独を抱えているひとはいないわけではない。 そこらへんのリアリティが、一見するとただのご都合主義のライトノベルに過ぎない『涼宮ハルヒの憂』を支えている。 多くの平凡な日常に甘んじている少年たちにとって、ハルヒはヒロインというよりむしろヒーローなのかもしれません。 ただ、甘やかされたヒーローですよね。彼女は当の意味で人間性の孤独と向きあってはいない。SOS団によって保護されていて、一時的な幸福に浸っている。 そこらへん、甘ったるい話だな、と思わないこともない。ただ、その甘ったるさがあの作品の魅力なのであって、一概に否定できるものではないとも思いますが。 涼宮ハルヒの憂 (角川スニーカー文庫)

    『涼宮ハルヒ』のリアリティ - だべりんぐ部
  • ハルヒからケータイ小説に話が飛びます。 - だべりんぐ部

    ハルヒの話には一応けりがついたかなと思います。そんなこんなで、話は飛びます。 今回のハルヒの話では、「リアルなハルヒ」はこの現実世界にはおらず、かといって小説やアニメの元の世界にもおらず、別の物語や思考の中に存在するということになりました。で、その別の(よりリアルな)物語にハルヒを持ってくるときには、文のつじつまの合わないところを補完したり、削ったりするということでした。そして、その補完されたハルヒは「リアル」なのです。 という前置きをしておいて当に話はケータイ小説に飛ぶのですが、ケータイ小説を「リアル」だと感じる人というのは、「リアルなハルヒ」を作るのと同じようなことを無意識のうちにしているんじゃないかなと思ったんです。 私は「あおぞら」しか読んでいないのですが(これもケータイ小説の一種ですよね?)、「あおぞら」の一連のエピソードが全て一人の女の子の身に起きる可能性はほとんどないです

    ハルヒからケータイ小説に話が飛びます。 - だべりんぐ部
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  • 「非モテ」とは何か2

    非モテ」とはなにかの続き。 「非モテ」が現在インフラは同じくしながらも無限に拡散し続けている概念である、ということは先のエントリで書いた通りである。 だが、無限に拡散しつづけるとは言っても、その中でもある程度の分類は可能であるだろう。 ■2つの分類軸 まず、非モテを白童貞と黒童貞で分けてみよう。簡単に言うとこれは視線が内にあるか、外を向いているかの違いである。つまり、 ・白童貞 ヘンリー・ダーガーをその理想型として、自分の内面世界=妄想であったり趣味世界の完成を目指す。「あらゆる努力は無駄である」という運命論的な立場を取ることが多い。 ・黒童貞 自分もしくは社会を自分の望む形で作り替えようとする。簡単に言うとリアルでのステップアップを狙っている人々。「努力」を前提にしているため、基的に非運命論。 となる。 ここで、もう一つの分類軸を置くことにする。つまり、原理主義と功利主義である。

  • はてなグループの終了日を2020年1月31日(金)に決定しました - はてなの告知

    はてなグループの終了日を2020年1月31日(金)に決定しました 以下のエントリの通り、今年末を目処にはてなグループを終了予定である旨をお知らせしておりました。 2019年末を目処に、はてなグループの提供を終了する予定です - はてなグループ日記 このたび、正式に終了日を決定いたしましたので、以下の通りご確認ください。 終了日: 2020年1月31日(金) エクスポート希望申請期限:2020年1月31日(金) 終了日以降は、はてなグループの閲覧および投稿は行えません。日記のエクスポートが必要な方は以下の記事にしたがって手続きをしてください。 はてなグループに投稿された日記データのエクスポートについて - はてなグループ日記 ご利用のみなさまにはご迷惑をおかけいたしますが、どうぞよろしくお願いいたします。 2020-06-25 追記 はてなグループ日記のエクスポートデータは2020年2月28

    はてなグループの終了日を2020年1月31日(金)に決定しました - はてなの告知
  • ファック文芸部関連で書いた文の紹介、虚実 - うどんこ天気

    第二回ファック文芸部杯*1に応募した文がありますので、こちらに転載しておきます。もし宜しければお読み下さい。個人史は終焉しない。続く。 ある個人氏の終焉、と言う文章を先日読んだ。男女が出会い、子供を妊娠した、と言う話だ。私は十代のころに子宮筋腫が出来、そして手術を受けた。不妊の傾向はあるだろう、と言う診断もその時受け、定期的に通院している。私は子どもの頃から、よく人のことを聞く人間だった。勉強はするもので、ご飯はべるもので、部屋は綺麗にするもので、結果は収めるものである、と。自分の生の意味を考え始めたのは思春期の頃だ。大概、親のために、社会のために。上手に生きるため、に収束した。私は常に落胆した。酷く憂に毎日を暮らした。したいことは何も無かった。酒を飲み、寝て、を読んだ。しかし私は何者にもなれなかったし、ならなかった。なる事を選ぶことすらしなかった、出来なかった。学生のころに恋人と暮

  • 首無し婆さん | 清野のブログ

    この婆さんのせいである。 何も考えずに街を歩いている時に、不意にこの後姿が視界に入ってきた時の衝撃といったら それはもう大変なもんだ。 最初こそ恐怖を感じていたものの、最近ではむしろ親近感を覚え、 「首無し婆さん」と勝手に呼んで親しんでいる自分もいる。 一ヶ月くらい街で姿を見かけないと、「婆さん生きてるかな?」と心配しちゃうし。 そんな訳で、この数年間に撮りためた、首無し婆さんの秘蔵写真をご紹介。

    首無し婆さん | 清野のブログ
  • http://twitter.com/Kuroe/statuses/587882392