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2010年10月13日のブックマーク (12件)

  • CL-S13V

    シンドバッド13回目の航海(Sindbad: The Thirteenth Voyage) Broken Mirrors Press, 1989 「宇宙舟歌」ではオデッセイアを下敷きに縦横無尽のほら話を展開させたラファティだが、編ではアラビアン・ナイトの世界を舞台にラファティ節が炸裂する。主な舞台はアラビアン・ナイトの時代のバグダッド。船乗りシンドバッドの正体はケンタウロン・ミクロンのスパイで、現代のシカゴから拉致されてきたのは語り部のシェヘラザードだ。おなじみのカミロイやアストローブから派遣されたスパイたち、終始悪ふざけを繰り返す七つの命を持った先代のカリフ・ハールーン・アッラシード、巨大化して皆既日蝕をおこすロック鳥、変幻自在のイフリートをはじめとする魔物たち、「どこでも航時機」で現代のシカゴから潜入した偽シンドバッドとその機械、地球の中心部に封じ込められた悪魔たちと門番のドラゴン

    florentine
    florentine 2010/10/13
    「シンドバッド13回目の航海(Sindbad: The Thirteenth Voyage)」
  • Amazon.co.jp: 暁英 贋説・鹿鳴館: 北森鴻: 本

  • 北森鴻 - Wikipedia

    北森 鴻 (きたもり こう、英語: Kou Kitamori、1961年11月15日 - 2010年1月25日[1])は、日小説家・推理作家。 名は新道研治。骨董や民俗学、料理や酒、明治初期の歴史などの分野を得意とする[2]。 来歴[編集] 山口県下関市生まれ[3]。宇部フロンティア大学付属香川高等学校、1984年駒澤大学文学部歴史学科卒業。 小学館の編集プロダクション勤務、フリーライターを経て、作家デビュー[4][5]。 1995年『狂乱廿四孝』で鮎川哲也賞受賞。 1999年『花の下にて春死なむ』で第52回日推理作家協会賞・短編および連作短編集部門受賞[6]。 2005年から2007年まで、格ミステリ作家クラブの監事をつとめる。 2010年1月25日午前3時7分、前日24日に自宅で倒れて緊急搬送され、処置治療を受けていた山口市内の病院で心不全にて死去。48歳没[7]。 受賞・候

  • エティエンヌ・ジルソン | みすず書房

    1884-1978。現代フランスのもっとも卓越した哲学者であり、とくに中世哲学思想研究では世界的権威として知られている。パリに生まれ、ソルボンヌの哲学史教授。コレジュ・ド・フランスの中世哲学史教授を経て、その後長年、カナダのトロント中世研究所の所長を勤める。その間、アメリカ、イギリスの諸大学へ招かれて講義をおこない、それをもとに数々の名著を生み出した。『デカルト体系の形成における中世思想の役割』(Etudes sur le role de la pensee medievale dans la formation du systeme cartesien,1930)をはじめとするデカルト研究において中世思想と近代思想の対話をこころみた。また、『中世哲学史』(La philosophie au moyen age,1922, 改訂版 1925)、『中世哲学の精神』(L’esprit de l

  • エチェンヌ・ジルソン(Etienne Henry Gilson)

  • ルネ・デカルト - Wikipedia

    ルネ・デカルト(仏: René Descartes、1596年3月31日 - 1650年2月11日)は、フランス生まれの哲学者、数学者。合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖として知られる。 名前[編集] ラテン語名はレナトゥス・カルテシウス (Renatus Cartesius) である。デカルト座標系(仏: système de coordonnées cartésiennes ; 英: Cartesian coordinate system)、デカルト積(デカルトせき、英: Cartesian product)のようにデカルトの名がついたものにカルテジアン(Cartesian)という表現が用いられる。デカルト主義者もカルテジアン(仏: Cartésien ; 英: Cartesian)と呼ばれる。 概要[編集] 考える主体としての自己(精神)とその存在を定式化した「我思う、ゆえに我あり

    ルネ・デカルト - Wikipedia
  • 魏志倭人伝(全文)

    倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす。旧百余國。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十國。郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓國をへて、あるいは、南しあるいは東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。 始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る。その大官を卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。居る所絶島にして、方四百余里ばかり。土地は険しく深林多く、道路はきんろくのこみちの如し。千余戸有り。良田無く、海物をいて自活し、船に乗りて南北に市てきす。 又南に一海を渡ること千余里、命けてかん海と日う。一大國に至る。官は亦卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。方三百里ばかり。竹木そう林多く、三千ばかりの家有り。やや田地有り、田を耕せどなお足らず、亦南北に市てきす。 又一海を渡ること千余里、末盧國に至る。四千余戸有り。山海にそいて居る。草木茂盛して行くに前人を見ず。好んで魚ふくを捕うるに

  • asahi.com(朝日新聞社):最大・最古級の未盗掘「粘土槨」 相当の副葬品か 兵庫 - 文化

    長尾山古墳の粘土槨=12日午後、兵庫県宝塚市、森井英二郎撮影  兵庫県宝塚市の前方後円墳「長尾山古墳」で、木棺を包んで保護する国内最大で最古級の「粘土槨(かく)」が見つかり、同市教育委員会と大阪大考古学研究室が12日、発表した。周辺から出土した埴輪(はにわ)の形から古墳時代前期前半の4世紀初めの墳墓とみられている。粘土槨の中には木棺のほか、貴重な副葬品が入っている可能性が高いという。  粘土槨は高さ1メートル以上、幅2.7メートル、長さ6.7メートルのかまぼこ状。後円部の墳頂に深さ2メートル以上、幅5メートル、長さ9メートルの竪穴を掘り、礫(れき)を敷いた上に築かれていた。造られた当時の形をほぼ保っており、この時代の粘土槨がほぼ完全な状態で確認されたのは初めてとされる。  長尾山古墳は全長約40メートルという規模から、大和王権と同盟関係にあった地域首長の墓とみられている。盗掘しようとした跡

  • 青空文庫で読める日本古典SF

    サービス終了のお知らせ いつもYahoo! JAPANのサービスをご利用いただき誠にありがとうございます。 お客様がアクセスされたサービスは日までにサービスを終了いたしました。 今後ともYahoo! JAPANのサービスをご愛顧くださいますよう、よろしくお願いいたします。

  • 理研ら、日本人が英語の発音や聞き分けが苦手な原因の一端を解明 | エンタープライズ | マイコミジャーナル

    理化学研究所(理研)とフランス国立科学研究センター(CNRS)の共同研究チームは10月12日、日人は生後14カ月までに「abna」のような子音の連続が含まれる単語と「abuna」のような子音連続が含まれない単語の音を区別して聞き取れなくなっていることを発見したことを明らかにした。 日人は、外国語の音の聞き分けが苦手といわれているが、その理由は個別の母音や子音の聞き分けができないだけでなく、音の組み合わせや強勢、韻律などのさまざまな要素がかかわっている。これまでの研究により、母語に含まれない母音や子音の弁別がどのように発達していくのかが徐々に明らかになってきており、乳幼児は、生後間もなくから、自分の母語にない外国語の音も聞き分けられるが、生後12カ月ごろまでにだんだんと聞き分けられなくなっていくことが知られている。しかし、音の並びの規則がどのように獲得されていくのかについては、よく分かっ

  • ロジェ・シャルチエ講演「本と読書、その歴史と未来」に反応する

    読書のデジタル化により、読むという行為の前に「書く」という行為が変わり、「オリジナリティ」や「著者」を定義しなおさなければならない――― 9/7 の講演会からいい刺激をもらった。 これは、国民読書年を記念して、国立国会図書館が開催したもの。フランスの歴史学者ロジェ・シャルチエ氏を呼んで講演→鼎談というプログラム[詳細]。非常に興味深い話ばかりなのだが、悲しいかな、良くも悪くも「大学の授業」だった。プレゼンを面白くする演出・技術が絶望的にヘタなので悲しくなる(大学のセンセにそれを求めてはいけないだろうが…)。ともあれ、わたしなりに絞ってまとめる。 もともと、「著者」という存在は後付けで生まれてきた概念だという。16世紀以前は、とは「過去に書かれた作品を語りなおすもの」であり、「長すぎる物語を短縮したり"物語中物語"に仕立て直すもの」だった。とはアンソロジーであり、あらすじ集のようなもので

    ロジェ・シャルチエ講演「本と読書、その歴史と未来」に反応する
  • 近衛信尹 - Wikipedia

    近衛 信尹(このえ のぶただ、旧字体:近󠄁衞 信尹)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての公卿。太政大臣・近衛前久の子。官位は従一位・関白、准三宮、左大臣。近衛家18代当主。号は三藐院(さんみゃくいん)。阿弥光悦・松花堂昭乗とともに「寛永の三筆」とよばれる。初名に信基、信輔[1]。 生涯[編集] 天正5年(1577年)、元服。加冠の役を務めたのが織田信長で、信長から一字を賜り信基と名乗る。 幼い頃から父と共に地方で過ごし、帰京後も公家よりも信長の小姓らと仲良くする機会が多かったために武士に憧れていたという[注釈 1]。 天正8年(1580年)に内大臣、天正13年(1585年)に左大臣となる。 同年5月、関白の位をめぐり、現職の関白である二条昭実と口論(関白相論)となり、菊亭晴季の蠢動で、豊臣秀吉に関白就任の口実を与えた。その結果、7月に昭実が関白を辞し、秀吉が関白となる。 秀吉が秀

    florentine
    florentine 2010/10/13
    「本阿弥光悦、松花堂昭乗とともに「寛永の三筆」と後世、能書を称えられた」