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ブックマーク / nix-in-desertis.blog.jp (39)

  • nix in desertis:第177回『赤と黒』スタンダール著,野崎歓訳,光文社古典新訳文庫

    冒頭と最後はおもしろかったが,中盤はやや中だるみしているという印象。 で,レビューを書こうとして,その前に世間の評判はどうなのかというのを調べたら出てきたのが,誤訳問題である。事前に知っていたら避けたと思うのだが,恥ずかしながらレビューを書く段になって気づいた。これに関しては書評の中身ともかかわってくるので,後から述べる。 物語の筋としては,理想に燃え才気にもあふれる主人公の道を誤った出世ストーリーで悪くはないのだが,まず出世の方法が「お前は島耕作か!」というほどいざという場面で女性頼りであり,その才気にあふれるという設定はどこに飛んでったんだと思わせられる(島耕作も,語学が天才的にできて雑務も得意だが,危機的状況は他人の手で助かることが多い)。というか,島耕作もこうであることを考えると,意外とこういった「才気あふれる」描写というのは難しく,ある種の作家にとっては鬼門なのではないだろうか,

    florentine
    florentine 2011/01/17
    『嶋耕作』未読なのですが「立身出世」がメインテーマとすると似てるのかな。ただ、12世紀以来伝統の年上人妻との恋愛、それと財産持ちの処女の間で揺れる三角関係構造もある。「生きた書いた愛した」の人ですからw
  • nix in desertis:5年ぶりのゴッホ展

    新国立美術館のゴッホ展に行ってきた。なお,ついでに日展にも行ってきたのでそちらについては明日の更新をお待ちいただきたい。 ゴッホ展といえばこのブログを始めて間もない頃に開催されており,あの時の展覧会の規模はすさまじく,いまだに割と鮮明に覚えている作品が多い。それに比べると5年のときを経て開催された今回のものはやや見劣りがしたため,やや行くのを躊躇していたのは確かである。それでも自分がゴッホを好きなのは裏切れず,日展を見に行くという用事も重なったことで,結局見に行くことになった。今回の展覧会のサブタイトル=テーマは「こうして私はゴッホになった」であり,ゴッホの修行過程を追うというものであったそうしてゴッホ人の作品展示数を減らそうという見え透いた手段ではあるのだが,この際そこにつっこむのは野暮ったい気もするし,実際勉強になったので文句は言えない(ただし,事実120点のうち半分は他の画家のもの

    florentine
    florentine 2010/12/16
    わたしも行きました。いろいろ考えられてよかったです。
  • nix in desertis:中世ヨーロッパの11世紀以前・以後

    Togetter - 「中世に対する3つの誤解」 先日つぶやいたことを早めにまとめておく。 誤解その2「中世とは“暗黒時代”ではない」。これは相当舌足らずになっていると思う。多分このつぶやいた人は全部わかってるだろうから,以下は説明についての誤りの指摘ではなく,あくまで補足である。 そもそもの問題は,中世という範囲が広すぎるのが原因である。実際4世紀末から15世紀半ばを指して中世とひっくるめるのは,一つの時代イメージとしては強引過ぎるとは思う。古代・中世・近世・近代・現代という時代区分は,近代以降は世界で統一が取れるとしても,それ以前となるとちょっとややこしい。特に近世というのは近代の準備段階に入った地域に現れる時代区分であり,中世から近代へ一足飛びで無理やり入らされる地域もある(要するにそうした地域というのはほぼ例外なく,先行した近代国家による保護国化・植民地化を伴う)。 してみると

    florentine
    florentine 2010/12/16
    ハスキンズとかクルチウスのおはなし。/アマルフィいくと、地中海貿易はじまったーって思う。紙もあるし/ ああ、トゥールのグレゴリウス読まなきゃ。
  • nix in desertis:人と神との境界

    美学の話ばっかりしていたら肝心の美術館報告が貯まっていたので一個ずつ消化していくことにする。まず5/19にこめとDiLと東博のレオナルド・ダ・ヴィンチの《受胎告知》をようやく見に行ってきた。その翌日に別の場所に、こめとネ右と行ってそっちはそっちで楽しかったのではあるが、その報告はこめがやってくれるだろうので自分は書かない。 予想しえたことでありまた仕方の無いことではあるが、今回の展示は当に《受胎告知》しか来ていなかった。天文学的な保険料がかかっているのだろう。展示は思った以上に至近距離で見れるようになっていて嬉しかったし、行った時間帯が良かったのか(休日だが閉館1時間前)混雑も思っていたよりは酷くなかった。 ただ、解説はもう少しなんとかなったのではないかと思う。レオナルドの天才さ、特に科学者としての彼にばかりスポットが当たっていて、《受胎告知》自体を読み解くための説明はほとんど無かったよ

    florentine
    florentine 2010/12/09
    レオナルド・ダ・ヴィンチの《受胎告知》.
  • nix in desertis:東方イコノグラフィー 〜萌え絵への美術史学的アプローチ〜

    東方projectのキャラ数が非常に多いため,それなりにキャラ付けの特徴的な東方キャラであっても,描き手の稚拙さやパーツの除去によっては,気で読み手が判別できなくなる場合がある。この現象や,この現象により判別不可能になった絵のことを「誰てめ絵」と呼ぶ。 「誰てめ絵」はなぜ忌避されるのか?それは「その絵は東方キャラであることに価値がある」と見なされているからである。そうでなければ,そもそもキャラを判別せずとも良いのだ。単に美少女の絵として評価されればよい。そうではないということはつまり,東方キャラであるということは,強い付加価値を持つ。無論これは東方に限った話ではなく,全ての萌え絵に関して同じことがいえるだろう。一般にオリジナルよりも二次創作絵のほうが評価されやすいのは,それだけ付加価値が強いためである。オリジナル絵そのものだけで評価されるのは,とても困難なことだ。 では,東方キャラである

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    florentine 2010/12/08
    「美術」タグつけてらっしゃるとあらば気合いれて後ほど読みます!→12/9読んだ!西洋美術史おたくとしても面白い。ミラード・ミースの『ペスト後のイタリア絵画』みたい!
  • nix in desertis:意外と怖くない麗子像がいた

    florentine
    florentine 2010/11/17
    「東アジア文化圏すごい。やっぱ日本人として漢文の基礎の基礎くらい修めておいて良かったと思った」石川淳とか読むと、これはしみじみ思うよなあ。
  • nix in desertis:togetter「美学のいろは」について勝手な可能な限りの解析

    ・「美学のいろは」(Togetter) 上から見ていく。どうでもいいが,これを主催した死に舞さんはひょっとしてうちの大学の博士課程だったりするんですかね?ブログに西村清和とかそんな文字が見えたような。 >「趣味について議論することができるのか?」 これは多分カントの話。この場合の趣味とは「人に快なる感情を与えるものに対する判断(能力)」の意味で,一般的ではない完全に美学的な言葉の使い方。カントは趣味判断について,感性のみで快不快が判断されるものについては,感性は人によって異なるので普遍的妥当性を持たない。よって議論不可能。ただし,判断に感性と構想力がかかわるものに関しては,構想力は悟性の下部概念であるので,普遍的妥当性を要求しうる。よって議論可能とした。このように,趣味判断において構想力をかかわらせるもの,その客体を「美なるもの」とした。「美」という概念は存在するものの定義不可能であり,「

    florentine
    florentine 2010/11/17
    「実は数回ある私的経験から言わせてもらうが,両者に相当な美術への関心がないと失敗しやすい。お勧めしません」う~ん、確かにそうなんだけど、でも、うまく合えば最高のデート体験なのでなあ…と恋愛脳のわたし
  • nix in desertis:第171回『アンナ・カレーニナ』トルストイ著,望月哲男訳,光文社古典新訳文庫

    タイトルを『コンスタンティン・リョーヴィン』に変更すべき。と,おそらくすでに言われまくっているであろうことを,あえて冒頭に掲げておく。 書を読んだのは二回目だが,一回目は大学1年の頃で,(某人の推薦で)義務感に駆られて読んだのもあり,旧約の読みづらさもあり,当時の自分の読解力もあり,ほとんど今回が初めてのような感覚で読んだ。感想が当時と大きく違うので,そこら辺を各登場人物に対する評価としてつらつらと語っていく。既読者はぜひ,コメントの程を。 アンナ・カレーニナ〈1〉 (光文社古典新訳文庫) 著者:レフ・ニコラエヴィチ トルストイ 光文社(2008-07-10) 販売元:Amazon.co.jp クチコミを見る 以下,全編ネタバレ。 ・アンナ・カレーニナ 昔読んだときはちょっとかわいそうな人だなと思ってたけど,今回一番感想変わったキャラ。かわいそうな人なんかではない,ただのメンヘラ。ヴロン

    florentine
    florentine 2010/11/04
    高校生のとき、あの冒頭にむかついて読んでないです>< いつか、ちゃんと読む。
  • nix in desertis:ツイッターから村上隆批判関連のpost再掲

    旬なうちにセルフでいいからとぅぎゃっとけよ俺,と思った。適当に再編集してるので,まんま再掲というわけではない。 何か勘違いしている人が多いが,これを自らの思索なしに芸術と認めることは寛容の発露ではなく,単なる知的怠惰。やはり,芸術は自己破壊することでしかもはや生き残れないのか。まあ個人的な意見としてはこうした「釣れた」とか「皆さんに考えてもらうこと自体が芸術です(キリッ」とかいう時点で,芸術ってとっくに終焉してるよなぁと。 東浩紀がヲタも現代アートもハイコンテクストな世界であり,片方に無知な状態で村上隆を批判するのはお門違いだというようなことを言っていた。悔しいがこれには賛同したい。現代アートはまさにハイコンテクストな世界だと思うし,批判するならその構造自体を批判する必要がある。その上で,私はまさに「現代芸術そのもの」を批判している。 で,村上人は「現代芸術の世界において日は搾取される

    florentine
    florentine 2010/10/22
    「要するに,現代芸術に対する視線が冷ややかなのは日本だけの状況でもなければ,現代だけの状況でもない。」
  • nix in desertis:江戸時代と米本位制

    ・世界初!愛知県豊田市で誕生したコメ兌換通貨の凄味〜「腐るおカネ化」で流通の加速を目指す(ダイヤモンド・オンライン)(Yahoo!ニュース) 自分以外も何人か指摘していたが,これは要するに江戸時代の制度とほぼ同じである。江戸時代は金銀複位制だったということになってはいるが,実際のところは金銀米複位制だったというのが適当だろう。 誤解を恐れずざっくり説明すると,江戸時代は身分・階層・地域によって貨幣が異なっていた。武士は農民から米を現物で徴税し,それを上方(大阪)で換金。西日の通貨は銀貨であったためここで銀貨に変わるが,さらに東日・江戸幕府及び各大名は金貨を正規の通貨としていたため,これをそれぞれの歳入とする折,もしくは東日の商人に流通させるべく,両替がなされる。この一連の兌換にかかわって大もうけしていたのが両替商である。大名や大商人への貸し付けもやっていたから,すでに銀行とほぼ同

  • nix in desertis:鍋島の青

    サントリー美術館の鍋島焼展に行ってきた。鍋島焼とは,江戸時代の前期に盛んに出荷された陶磁器である。伊万里(有田焼)との違いは,同じ佐賀鍋島藩の藩窯ではあるものの,あちらが国内の好事家や海外輸出向けの制作を行っていたのに対し,鍋島焼と呼ばれるほうは国内の藩や徳川幕府への贈答品としての意味合いが強い。また,伊万里は色絵付けが多く,柿右衛門や金襴手といった種類のものが有名であるが,鍋島焼はそれに比較して落ち着いたデザインで,基的には白磁に青の二色を基調とする染付が多い。 輸出向け,大衆向けのほうが豪華で派手で,国内の上流階級に向けたもののほうがシックなデザインというのもおもしろい話である。これは名前にも現れている。同じ鍋島藩の藩窯であるにもかかわらず,有田で焼かれた物はその輸出港である「伊万里」の名を冠し,逆に大川内山で焼かれた物は国内でしか流通せず,専ら鍋島藩の贈答品であったため「鍋島焼」と

  • nix in desertis:保守主義とは何か

    自称がつかなければ保守と名乗れないような状況は異常である。ここでは私の保守主義の定義を出すが,別にオリジナルというわけではなく,こんなことはバークが規定し,ディズレーリが実行し,マンハイムが再確認したところでしかない。これをもって私は「自称」を外すことにする。代わりに「古典的」でもつけようかと思う。 ・保守主義とは「漸進的な改革」路線である。改革を否定すればそれは事大主義となり,改革を過度に進めればそれは革新勢力となる。あえていうなれば,反原理主義と,最も急進的な改革としての(暴力)革命に対する抵抗=反革命が,保守主義にとってのほぼ唯一の理念と言える。 ・保守主義はそれ以外の特定の理想・理論を持たない。理想を掲げれば革新勢力になる。特に「平等」を掲げ理論で肉付けすれば,それは左派になる。「自由」を標榜すればそれは自由主義になるだろう。加えて,そこに宗教的論拠や民族主義を持ち込めば右派となる

  • nix in desertis:芸術定義議論の歴史的経緯(3)

    前回あえて書き落としたことから触れておく。それは18世紀の中葉に起きた出来事である,「美学」という学問の誕生である。してみると,美学とは哲学と美術史の間に立つ学問だと思われるが,その歴史は浅い。哲学は古代ギリシアから存在し,美術史の確立もどう新しく見ても16世紀後半のヴァザーリということになるだろう。もちろん,美学もさかのぼろうと思えばプラトンに到達できなくはないのであるが…… 美学という学問の創設者は一般にバウムガルテンというドイツ人とされるが,実はバウムガルテンに美学を作ったという意識はなかった。これには当時の学問分野の分け方に事情がある。すなわち,哲学は人間の理性や悟性を対象として扱うが,「感性」を対象にする学問は当時存在していなかった。そこでバウムガルテンは感性を研究する学問を創始した。そこで美を認識するのは感性であると定義し,バウムガルテンは感性は下位的な認識能力であり,哲学こそ

    florentine
    florentine 2010/07/16
    ラオコーン懐かしい!/オルセー展見てきました。この印象派論至極納得/「ここではさらに線的遠近法=理性=神は二度目の殺害に遭った」自作小説で正に殺された「神」に触れてます。「ルネサンス美術おたく」なのでw
  • nix in desertis:芸術定義議論の歴史的経緯(2)

    前回。ルネサンスからしばらくの間,西欧美術の中心地はイタリアであった。一般的な歴史ではローマ劫掠(1526)でイタリアが経済的に壊滅し,ルネサンスの中心がフランスへ移ったとされる。今そんなバカな,と思った方はおそらく美術通だと思うのだが,その通り美術の場合は状況が少し違った。理由はいくつかある。反宗教改革運動により,イタリアにはいまだ美術作品に需要が大きかったし,教会には資金が集まっていたこと。これはマニエリスムやバロックが伸びていく理由となる。そしてもう一つは,イタリアの風景が美しく,古代ローマの遺跡も豊富であったということ。これらは歴史画を描くための格好の材料であった。こうして,ヨーロッパの画家たちはこぞってイタリアに旅行した。 それは北方ルネサンスの中心地にして油彩画発祥の地,オランダであっても同様であった。近年の研究では,オランダにおいてイタリアに赴く画家は「親イタリア派」と呼ばれ

    florentine
    florentine 2010/07/02
    名言の数々素晴らしい!「今私は世界中の美術史家に土下座しながらこの文章を書いている」お察し申します!/Pour l'amour de l'antique : la statuaire gréco-romaine et le goût européen, 1500-1900 わたしのゼミ購本。故にプッサン派です☆
  • nix in desertis:カスパー・ダーフィト・フリードリヒについて付録:参考文献一覧

    まあ,一応ね。レポートにしろ卒論にしろ,自分で読んでから書いてほしいという思いもこめて。書籍紹介にとどめ論文紹介まではやらんので,各自自分でCiNiiするなりなんなりしてください。ついでに各記事へリンクを作っておく。 ・カスパー・ダーフィト・フリードリヒについて(1):思想形成 ・カスパー・ダーフィト・フリードリヒについて(2):脇道、崇高概念について ・カスパー・ダーフィト・フリードリヒについて(3):人生と画業の遍歴・前編 ・カスパー・ダーフィト・フリードリヒについて(4):人生と画業の遍歴・後編 ・カスパー・ダーフィト・フリードリヒについて(5):評価/研究史・周辺の画家 A.日語で読めるもので必読のもの,基書 ・ペーター・ラウトマン『フリードリヒ【氷海】』長谷川美子訳、三元社、2000 → 真っ先に読むべきの一冊。薄くてさっさと読めるが,フリードリヒ研究のエッセンスは詰まって

    florentine
    florentine 2010/06/27
    目印ブクマ。/ id:DG-Law さん、ご存知かもですが、辻邦生氏(中世美術研究者辻佐保子先生の御夫君)が『風の琴 二十四の絵の物語』(文春文庫)で「ドレスデン大猟場」に霊感を受けて短編を書いてます。ご興味あれば。
  • nix in desertis:偉大なる画家十選

    そういうことやられると,追随したくなっちゃうでしょうが。ぶっちゃけて言えばいつもの「○○選」なんだが,基準が統一ではなくて,視点を変えていろいろ作ってみるからこそおもしろい。 つまりここでいう「偉大」ってのは,美術史への貢献度とか(西洋美術好きからの)人気の高さが重要なのであって,個人の主観を聞いてるわけではないわけだ。つまり,フリードリヒなんぞは私がどれだけ愛していても,端にも棒にも引っかかりはしない。むしろドイツ三人衆(デューラーとクレー)なんぞ誰も入らない。にもかかわらず,ある程度絞ったところだとその貢献度や人気を判断するのはあくまで主観であって,そこに間違いなく私情は入る。これはおもしろい。 今ぱっと候補考えたら20人くらい出てきた。さて,誰削ろうか。美術史というのは「点と点が無限に連なれば,普遍妥当的にそれは線である」という数学上の定義そのままなので,そこから点を抜き出して,「誰

    florentine
    florentine 2010/06/27
    こ、これは……! 「偉大」かあ。ジョット、プッサンはガチ。「理由」を読むと納得してしまうとこもあるが、ルネサンスおたくとしては心情的にも歴史的意味においてもミケ様レオ様を外せないかなあ。
  • nix in desertis:芸術定義議論の歴史的経緯(1)

    美術・芸術とは一体なんだろうか。ここは私らしく,ガチガチに歴史的な方面から攻めていってみよう。超ざっくり端折って説明するので,部分的に間違っているという指摘はある程度勘弁。 その起源を追うと,古代ギリシアに置く人もいるだろうが,私はあえてルネサンス期に置くことができると言いたい。なぜなら,古代においても確かに「芸術作品」は存在したし,後世から芸術家と判断されるような人物も存在はしていた。芸術論というようなものも,プラトンやアリストテレスあたりから読み取れる。が,それでもやはり,古代ギリシア・ローマにおける芸術と,ルネサンス期以後の芸術では概念的な意味合いが異なると思われる。 そもそも,なぜ芸術という概念が必要なったか。これは実は至極現実的な問題に基づく。つまり,一部の職人の賃上げ交渉に他ならない。中世末のヨーロッパ・キリスト教的世界においては,手作業を行う職業・形而下を扱う職業は卑賤で,思

    florentine
    florentine 2010/06/27
    ゼミ購読本の数々、ハスキンズ、ブルクハルト、クルツィウス、パノフスキー等を思い出す。北方ルネサンス関連はともかく、北方や東洋美術方面は不勉強なので、ドイツアカデミスム等の話はありがたいです
  • nix in desertis:大相撲の賭博騒動について

    ブコメで100字じゃ無理とか書いてしまったので,ブログのほうで書きたい。 まず,大相撲は「興行」であり「神事」であり,そして「スポーツ」である。しかし,古くから続く興行である以上,裏社会とのつながり無しには生きていけなかったという事情は存在する。ただし,この点では相撲協会をなんら擁護するものではない。少なくとも以前ならば,たとえば巡業の際には地元の暴力団に頼まなければ場所が確保できなかったという事情もあっただろう。ゆえに,突然降って沸いたように,893との関係が登場してきたわけではなく,他のスポーツのようにはうまくいかなかったという点は考慮されてもよいだろう。まあ,双葉山が出てくる前くらいまでの,東西対戦やってた頃の大相撲なんてひどいもので。問題はどちらかと言えば,時代が変わって暴力団に頼る必要性がなくなってきたことと,暴力団に対する世間の風当たりが強くなってきたという時代の流れを読みきれ

    florentine
    florentine 2010/06/24
    むかし、職場で横綱の化粧まわしを見せてもらったことがある。まさに豪華絢爛、大層素晴らしかった。ああいう伝統工芸を支える意味もあるだろうしなあ……
  • nix in desertis:丸の内に溶ける

    florentine
    florentine 2010/06/18
    「その挑戦心は多少西洋美術を学んだものなら、絵から誰でも読み取れるのがマネの偉大なところではあるまいか……」はい/「個人的な趣味だけで言えばやはりモネやルノワールのほうが好き」わたしもです(笑)