生来の日本語話者の一群が一群のレベルで折に触れて表出する日本語への異和感は、「いいたいことがうまくいえない」といった言語表現をめぐる普遍的な問題とはおよそ異質なものである。言語が言語であることに由来する、この手のありふれた不満は、その突き詰められた先で、もっぱら例のあの「語りえぬもの」に関係している。しかし、山城むつみは「何を読み、何を書いても、最終的にはどこかしら虚しい」(「文学のプログラム」)というのだ。「毒」(中上健次)は、どうやら日本語での読み書きの全体に回っている。「ドップリ漬かってる」とはそういうことだ。 たとえば丸谷才一や鈴木孝夫をはじめとする多くの人たちが、志賀直哉の「国語問題」の文章における明晰さの欠如を指摘する。「こんな調子で書けば(中略)フランス語で書いたつて、ろくな文章はできるはずがない」(丸谷)。「もし同じ議論を英語なりあるいはフランス語で書いたとしても、あいまい