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Descartesに関するfunaki_naotoのブックマーク (23)

  • 新しいデカルト・その2 - 本と奇妙な煙

    懐疑論者ではない 「わたし」が第一原理になったとたん 激動混乱による迷いは懐疑ではなく気絶。 限られた完全性 信じることは疑いから生まれ、疑いは信じることから生まれる 前日のつづき。 新しいデカルト 作者:渡仲 幸利メディア: 単行 懐疑論者ではない 「ただ疑うために疑い、どこまでも先のばしにすることを誇示する人びと」は、デカルト以前も以後も、いくらだっていたが、自分はけっしてそういう懐疑論者の仲間ではない、とすでに『方法序説』でも明言している。 『方法序説』を出して以来、デカルトにつきまとったものは、かれがそこに開陳してみせた懐疑を、なにか特別な刺激的な新種の思考方法のようなものとして受け取りたがる無理解だった。 そもそもデカルトがとった方法は、「疑う余地のないほど、明晰にかつ判明に、わたしのこころに現われたものしか、判断のうちに取り入れないこと」、それだけだといっていい。 例のフレー

    新しいデカルト・その2 - 本と奇妙な煙
  • 新しいデカルト - 本と奇妙な煙

    さわやかな「わたし」 よりみちのススメ 旅立てジャック あたりまえの能力 イライラは天気や体調のせいかもね 新しいデカルト 作者:渡仲 幸利メディア: 単行 さわやかな「わたし」 あえてこういおう。社会にはひとかけらの精神もないのである。だから、けっして考えさせられるな。「わたし」に帰れ。考えさせられるのでなく、考えよ。デカルトの「わたし」、あのさわやかな「わたし」、これだけが、たんに人為的なまとまりにすぎない諸々の体系に開いて閉じることのない、異質な風穴なのだ。 異なる存在をも異なる体系をもまったく恐るべき冷たさで飲み込んで均して、自分の陣地の拡張をしつづけるこの世界にあって、ただ一つ、そこからまぬがれつづけて、びくともしないもの、それが、デカルトの「わたし」である。 デカルトは、ときに「わたし」と呼ばずに、「良識」とも呼んだが、こういう「わたし」とは、この世界のことであり、存在のこと

    新しいデカルト - 本と奇妙な煙
  • 哲学文庫

    デカルト 『省察』 三木清訳 1639年末よりデカルトは『省察』の執筆に着手し、1640年半ばに書き上げた。しかしその出版に先立ち、デカルトは当時の神学者や哲学者にあらかじめ原稿を閲覧してもらい、その内容に関する批評の一文を請うた。これらの批評と、そしてそこに呈された疑問と難点に対しあらためて答えた答弁を、先の『省察』文と併せて一冊と為して、デカルトはこの書を刊行したのである。この論駁答弁の部分をあわせれば大冊になるものの、文そのものは小著といえるぐらいの分量である。デカルトの著作は『方法叙説』のほうが、我々日の読者にはなじみがあるし、その読書を薦める人も多いのであるが、もしデカルト哲学の理論的概要を知ろうとするならば、この『方法叙説』は一面しか与えてくれないであろう。実はこの僅かな分量の『省察』文こそが、その筋道だったまとまりを通じて、この要求に応えるものなのである。そこに着実に

    funaki_naoto
    funaki_naoto 2006/04/13
    デカルト『省察』三木清訳