玉造稲荷神社 鳥居と本殿 向こうが北で大阪城方面 玉造稲荷神社の長い歴史をご由緒にあわせて解説。 玉造稲荷神社・ご由緒(文字起こし。色文字部分) 古代勾玉作りの難波玉作部(なにわたまつくりべ)が居住していた地で、現在の(大阪)玉造の地名もこれに由来致します。 御神紋の勾玉 当神社の創祀は、垂仁天皇18年(BC12年)にさかのぼるといわれる古社であります。 鳥居前・玉造岡の碑、岡と云われた境内の高さ 玉作岡は難波玉作部(玉作職人)の集団居住地であったと云われている。 私が住む南の夕陽丘(四天王寺)あたりから、北の大阪城までの上町台地は坂と丘(岡)が繰り返す地形で、玉作岡もそのひとつ。玉造稲荷神社(玉造エリア)は大阪城の南側にあたる。 聖徳太子が物部氏と仏教の受容問題で争われた時、この玉作岡に陣をひき当神社に戦勝を祈願し、戦勝後この地に観音堂を建立されたといわれております。 境内の丁未の乱の絵
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