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認識論に関するgauquiのブックマーク (18)

  • Sensitivityにまつわる諸問題: NO NAME

    ふう、最近論文を書いていたのだが、ようやく初稿ができあがったので、ひと休憩。ちょっと今日は、この前書いたまっとうな認識論のことでも書きたいと思う。知識ないし正当化の理論としては、まあいろいろあるわけだが、僕が一番個人的に好きなのは、ノージックのsensitivity条件と言われるものである。僕がこれが好きな理由は、これは外在主義的理論のうちで、唯一明確に、弁別能力に焦点を合わせたものだからだ。この辺はいつか論文を書きたいと思っているので、そのうちにまた詳しく書きたい。 さて、ノージックによれば、sensitivityとは、知識の必要条件であり、以下のように定式化される。 (Sensitivity) if p were false, S wouldn't believe that p. Sensitivityにはよく知られた問題が、6つほどある。 1.Epistemic Closureの否定

  • 2012年の認識論を振り返る: NO NAME

    さて、またもや全然更新しないうちに年末になってしまった。というわけで、今年も唐突にこの1年の認識論を振り返ってみる。今年は認識論関係の新刊、アンソロジーが数多く公刊されて、認識論にとっては豊穣な一年だった。 1、認識論的選言主義が台頭する。知覚の哲学における選言主義とは、知覚や見えがどのような心的態度なのかという点に関わる立場だが、認識論的選言主義とは、認識主体がどのような理由、ないし証拠を持っているのかという点に関する立場である。選言主義の始祖の一人マクダウェルの立場には両者が混在している(彼の立場を純粋に認識論的選言主義と見なす人もいるが、明確に知覚の哲学における選言主義を支持している論文もある)が、そこからインスパイアを得た立場を論じる人が現れてきた。Duncan PritchardとRam Netaで、共著論文もある。Netaは、積極的に認識論敵選言主義に対するアーギュメントを提示

  • "1. 論文拝読させていただきました。日本人の手による本格的な文脈主義的認識論・認識論の論文は全くなく…" — Masashi Kasaki | Twishort

  • 「知っている」の認識論

    Yu Izumi @yuizumi 「知っている」の「てい」をまじめに考慮してみた認識論の文脈主義に関する論文を書きました.https://t.co/y5Fiez18 批判の的になるのがずっと夢です. 2012-08-05 23:41:29

    「知っている」の認識論
  • マクダウェルと認識論に関する私論

    認識論(どのように命題が真であると分かるのか)に関しては大きく二つの立場がある。その一つは対応説であり、語と物に対応関係があればその命題は真であるとされる。これは、それが正しいかどうかは見れば分かる!という常識的な直観に合致した分かりやすい考え方であり、有名なところでは論理実証主義者はこの考え方を採用していた。しかし、この考え方には大きな欠点があり、それはセラーズによって所与の神話だとして批判されている。つまり、外から与えられた感覚だけによっては命題が真であるかは分かり得ないという。例えば「これは赤い」という命題が真であるかどうかは、示された対象を目で確かめれば済む話のはずである。だがそうはいかない。その色が赤であるかどうかというのは感覚からだけでは確かめようがない。判断する側に「赤とはどんな色であるか」という赤に関する概念がなければ、それが赤であることを確かめることはできない。論理実証主

  • カオスちゃんねる : 「おまえら」ってなんとも言えない不思議な言葉だよな・・・

    2018年03月06日22:00 「おまえら」ってなんとも言えない不思議な言葉だよな・・・ 過去のおすすめ記事の再掲です 1 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2012/03/01(木) 02:23:47.78 ID:6Kn+jD5f0 昨日話してたおまえらと今日話してるお前らは 違うおまえらなんだよな・・・ 3 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2012/03/01(木) 02:24:49.94 ID:cfGz7R610 このスレみてお前を煽ってる奴が明日には交通事故で死んでいる可能性 5 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2012/03/01(木) 02:26:43.11 ID:6Kn+jD5f0 >>3 おまえらが明日も2chにいるとは限らないんだよな でも明日も2chに「おまえら」はいる

  • 「カテゴリー」を持ち出しても話は変わらない:西村「プラスチックの木……」書評への批判を受けて。 - 山形浩生の「経済のトリセツ」

    1. はじめに 昨日書いたものに対して、著者西村の弟子筋とおぼしき昆虫亀から反論・批判がきている。 西村清和『プラスチックの木はなにが悪いのか』への山形浩生氏の書評 - 昆虫亀 ぼくは「プラスチックの木はプラスチックであるからとにかくダメ」という西村のの議論に対して、「それは結論ありきの循環論だから無意味、物と人間には区別できないプラスチックの木ができたらどうするの」と批判した。 それに対して昆虫亀は、美的体験はそのモノの帰属するカテゴリーで左右されるから物理的に区別がつかなくても関係ない、と主張する。 さてぼくは、この反論・批判は、反論にも批判にもなっていないと思う。それどころか、ぼくの当初の論点をさらに強化する例示にしかなっていないと考える。 2. ちがうはさておき「まちがっている」となぜ言えるの? まず一つ。昆虫亀はここで、問題を矮小化している。自然の木とプラスチックの木はカテゴ

    「カテゴリー」を持ち出しても話は変わらない:西村「プラスチックの木……」書評への批判を受けて。 - 山形浩生の「経済のトリセツ」
  • 西村清和『プラスチックの木はなにが悪いのか』への山形浩生氏の書評 - 昆虫亀

    西村清和の『プラスチックの木でなにが悪いのか』について山形浩生が書評(のようなもの)を書いてる。 http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20120120 ただ、読み方があまりにひどい*1。 このひと議論の流れをまったく理解できてないどころか、そもそも哲学書の読み方を身につけてないんじゃないか、とも一瞬思ってしまったけども、まぁ一応たくさんを読んでらっしゃる人だし、英語も読める人だし、西村の書き方も悪い所がないわけではないので、一応、専門家の端くれとしてフォローしとかなきゃいけないな、とおもって書く次第。 いっときますが、個人攻撃ではありません。こういう誤読はよくあるし、このあたりの議論をこれまでちゃんと世間に紹介してなかった美学者にも責任があるのです。 このについては、以前のエントリも参照。 はい。 では、最初に山形氏が引用している一文。 自然の木を断念し

    西村清和『プラスチックの木はなにが悪いのか』への山形浩生氏の書評 - 昆虫亀
  • 2011年の認識論を振り返る: NO NAME

    年末ということで、今年出版されたを紹介しつつ、今年の認識論を振り返ってみる。 1、徳認識論への関心が高まる。SosaやGrecoが従来のほとんどプロセス信頼性主義と変わらない立場から、知識の価値に着目して、近年、従来とは異なる立場に移行した。両者ともすでにこの新たな立場についてを出版しているが、Sosaがより入門向けのを書いた。 Ernest Sosa (2011). Knowing Full Well (Soochow University Lectures in Philosophy). Princeton University Press. 知覚経験の内容に関する章を除いて、非常にわかりやすく彼の新たな立場が解説されている。 徳認識論は、主に信頼性主義に近い立場と、徳倫理をモデルにして主体のCharacterに定位した立場という二つの流れがある。後者にはKvanvigの昔の

  • ■ - 偽日記@はてなブログ

    ●メモ。『考える脳考えるコンピューター』(ジェフ・ホーキンス)、4章、5章。 脳のニューロンの反応はきわめて遅く、一秒に二百回程度の処理しかできない(コンピューターは一秒に十億回の演算ができる)。では何故、並列コンピューターを使って行う何兆というステップでも出来ない難問を脳が解くことができのか。それは、脳が「計算する」システムではなく「記憶する」システムであり、答えを「記憶」から引き出してくるからだという。《ニューロンはそれを蓄えるのであって、計算するのではない》。 ●新皮質による記憶の、ハードディスクやメモリーチップとの違いは、次の四つだとする。 (1)新皮質はパターンのシーケンスを記憶する。 (2)新皮質はパターンを自己連想的に呼び出す。 (3)新皮質はパターンを普遍の表現で記憶する。 (4)新皮質はパターンを階層的に記憶する。 4章、5章で(1)から(3)までが説明される。(4)につ

    ■ - 偽日記@はてなブログ
  • 内在主義とは何か: NO NAME

    内在主義とは何かという問いに答えることはなかなか難しい。というのは、この言葉自体に幾つか意味があり、認識論で内在主義と呼ばれる立場全てが、同じ意味で内在主義というわけではないからである。そして外在主義は内在主義の否定であると定義できるが、同じ理由で、外在主義と呼ばれる立場すべてが、同じ意味で外在主義であるわけではない。 まず、内在主義・外在主義という立場は、知識に関わるものか、その必要条件に関わるかで意味が違う。それ故、例えば、知識に関する内在主義と正当化に関する内在主義というのは異なる立場であり、正当化を知識の必要条件とすれば、前者は後者を含意するが、その逆は成立しない。 知識に関する内在主義とは、真理を除く知識の必要条件のすべてが、何らかの意味で主体に内在するファクターのみによって成否が決まる条件であるという立場である。 正当化に関する内在主義とは、正当化条件が、主体に内在するファクタ

  • InterOntology09 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

    InterOntology09 - Interdiciplinary Ontology Forum in Japan 学際オントロジー09、2日目の一部だけですが、参加してきました。 いろいろ考えさせられるおもしろい会でした。感想はいずれ。 (最近まとまった記事を書こうとして時間がなくてなかなかアップできないことが多いので荒書きでもとりあえずアップすることにしようかと思って)。 ちょっとだけ感想追加。 哲学の人や工学の人や医療の人がより集ってオントロジーを論じあうカオティックな国際シンポジウムだった。 個人的にはSimonsやB.Smithなどといった存在論界のビッグスター(何)を間近に見れてミーハー的に感激。 一応わたしもエンジニアなので、工学系の発表も興味深く聞いたが、哲学者との志向の違いをわりとまざまざと見せられ、考えさせられるところは多かった。 たまたま見たのがそうだったのかもしれ

  • 数の起源と音楽: コミュニケーション有能への進化(25)

  • 読書メモ - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

    つづくかどうかわからないが読書メモをとることにした。 最近の関心 - 自己知識 - 他人の心 / 独我論 - 懐疑論 * Lewis, David, 'Attitudes De Dicto and De Se' -http://philpapers.org/rec/LEWADD 読んでいなかったので読んだ。 命題的態度について、(1)命題をつかってうまくいく場合は、性質でもうまくいく。(2)命題でうまくいかないのに性質でうまくいく場合がある、ということで、性質をつかった態度の理論を推す。 途中の2人の神の思考実験がすばらしい。世界に2人の神がおり、2人の神の内、ひとりは最も高い山の上でマナを投げつづけている。もうひとりは最も寒い山の上で稲を投げつづけている。ふたりとも全知なので、この世界で成り立つすべての命題を知っている。しかしなお彼らには、まだ知らないことがある。彼らは、自分が2人の内

    gauqui
    gauqui 2011/07/09
    自己知識、他人の心 / 独我論、懐疑論
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    2008-04-05 optical_frog 2008-04-05 通りすがり 2009-02-11 optical_frog 2009-02-11 @minorimironim 2009-02-11 @minorimironim 2012-06-02 optical_frog 2012-06-02 toohuudoo 2009-02-11 optical_frog 2009-02-11 dh 2012-12-31 optical_frog 2012-12-31 ponchi 2012-12-31 optical_frog

  • Miura Toshihiko's page: Book Reviews

    ★戸田山和久『知識の哲学』(産業図書) 『論座』2002年9月号掲載 著者の戸田山和久は一九五八年生まれ。〈危険な年頃〉である。四十歳を過ぎたあたりから、世の哲学者たるもの、なぜか何が何でも「独自なこと」を言いたくなるらしいのである。 地道な勉学と思索の結果、いつかかっこよく壮大に飛躍する野望はかなえられそうにない、と悟る時期がくる。そこで少なからぬ哲学者が〈逃げ〉に走る。最も厳密な論証を旨とし、科学者気質の頭脳派がひしめいているはずの「分析哲学」でも事情は変わらない。日の分析哲学者の多くは、パズル解きに類した現場作業は不惑過ぎたら卒業とばかり、もっと深遠な独創的見解を体系化せねばとの強迫観念に囚われているかのようだ。 実際、ここ二、三年に刊行された分析哲学書には、「落差の反復」とか「因果的超越の果てしない後退」とか「反転の織り合わせ」とか、客観的な議論のやりようのない比喩を多用

  • 浜日出夫、2006、「羅生門問題――エスノメソドロジーの理論的含意」 - リスタート

    ■浜日出夫、2006、「羅生門問題――エスノメソドロジーの理論的含意」富永健一編『理論社会学の可能性』新曜社 中学生のころ、友人と一緒に学校から帰る時によく話した話題を今でも覚えています。 「おれが見てる赤は、おまえが見てる赤とちがうかも!」 「たしかに!でも、そしたら色だけじゃなくてあの信号の形もバラバラなんじゃね?」 「たしかに!やばっ!お前の信号どんなん?」 「いやーふつーに四角くて、灰色で…」 「四角ってどんなよ!灰色ってどんな色だよ!笑」 「苦笑… で、でも形まで違ったら触った時に、なんか変になんじゃね?」 「たしかに…。」 「うーん。じゃやっぱおんなじもん見てんのかー」 こんな会話を飽きもせず、何度もしていた記憶があります。○所くん、憶えていますか?高校に入学して、カントの認識論などを勉強したり、大学でヴィトゲンシュタインと出会ったりして、既にいろんな人が考え尽くしてた事なんだ

    浜日出夫、2006、「羅生門問題――エスノメソドロジーの理論的含意」 - リスタート
  • つくろう!ゲティアケース - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

    - Duncan Pritchard, "What is this thing called Knowledge?" このは学部生向けの認識論の教科書です。日語で(分析的)認識論を解説したがあまりないので、このを読んでいました。認識論についていいかげんなことを書いてしまいがちなのでちょっとは勉強しようという試みです。 なお、これは笠木さんのブログで紹介されていたです。ちなみに、ゲティアケースについても笠木さんがもっとちゃんとした記事を書いているので、まじめに関心のある人はそっちを読んだ方がよいですよ。 このは非常にうすくて内容もやさしいのですが、「知識の定義」や「合理性」「懐疑論」といった認識論の主要な問題はもちろん、「知識の価値」「徳認識論」や、めずらしいところでは「道徳的知識」など、比較的新しい(らしい)テーマも含んでいます。 そんなわけで非常によいなんですが、読んでいた

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