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ブックマーク / furuyatoshihiro.hatenablog.com (212)

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    ●(昨日からつづく、小林秀雄『近代絵画』をめぐって) 最近、ゴッホが色覚異常だったみたいな話から、ゴッホと色彩について、というか、絵画において色彩って一体何なの?、という雲をつかむような事柄についてあてもなくいろいろと考えていて、そんな時に読んだ以下に引用する小林秀雄のゴッホについての文は、かなり衝撃的にズカーンと頭のなかに入ってきたのだが、しかし、(昨日も書いたけど)別にゴッホや色彩などに特に興味がない人が読んだら、それこそ空疎で凡庸な修辞でしかなく、悪しき「絵画の文学化」としか読めないのではないかとも思ってしまう。ぼく自身だって、時と場合によれば、そのように感じるかもしれない。 《彼が一番好み、重んじた黄色にしても、それが何を現すかを彼は言う事が出来なかった。彼が、はっきり言えたのは、その色調に発狂が賭けられていた、という事だ。彼は、一時、パリにあった時、印象派の色彩に強く影響されたが

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    gauqui
    gauqui 2011/12/31
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    テレビを点けていても面白くないので、DVDで『キック・アス』をぼんやり観ていた。 ぼんやり観ていた感想でしかないけど、『キック・アス』は確かによく出来ていると思うけど、アメリカのヒーロー物ってなんでこんなにシリアスというか、陰惨な印象になるのだろうかと思いながら観ていて、そして、ラストにはどうしても納得できなかった。 最初、ヒーローにあこがれる駄目な男の子が苦い目に合いながらも成長してゆくという王道の話をオタクカルチャー的にひねったものかと思っていると、いつの間にか復讐に燃える殺人マシーン父娘の話になってゆく。この二組の共通点はヒーローのコスプレをしているということだけで、全然ちがうものに話がすり替わってしまう。 この父娘には人を殺すことにほんのわずかのためらいもない。父の方にはまだ「復讐の動機」があるけど、娘には動機すらなく、ただ父に一方的に洗脳されて殺人マシーンとして育てられてしまっ

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    ●『輪るピングドラム』最終回。素晴らしかった。納得できる終わり方。現実にはそんなことはありえなかったし、そして、それを思い出すことも決してできないが、しかし確かに存在する「ある記憶」に支えられることで、人は生きている。ある意味「夢オチ」とも言える、すべては無かった、と同時に、あった、という形で作品が閉じられる。いや、すべてが実在したからこそ、「すべては無かった」と言えるこの世界が残された。冠葉と晶馬が実在し、彼らが自らの存在を全うしたからこそ、彼らの痕跡はこの世界からきれいに消えることができた(この消滅は積極的な消滅であり、こどもブロイラーによる透明化とは異なる)。この作品のすべてが、(逆デジャブとでも言うべき)思い出せない記憶のもつリアリティに賭けられているところが素晴らしい。冠葉と晶馬は消え、ただ(もはや誰の目にも映ることのなくなった)ペンギンだけが残される。誰の目にも映らない、誰から

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    gauqui
    gauqui 2011/12/25
    ピングドラム最終回批評。眞悧先生についての分析とか流石
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    ●まだ読み始めたばかり(一章と二章まで読んだたけ)だけど、『魂と体、脳---計算機とドゥルーズで考える心身問題』(西川アサト)がすごく面白い(「西川アサキ」でした、名前間違えてしまって失礼しました)。一章、二章では(サブタイトルにある)ドゥルーズというより主にライプニッツ(ドゥルーズによって注釈されたライプニッツ)について語られる。『シネマ』さえも、ライプニッツへの注釈書として読まれる。《…書の主要な「登場人物」は、ライブニック、ベルグソン、ドゥルーズといった哲学者達だが、彼らの著作に対する注釈書ではない。彼らのを今読むためには、どうしても彼らが「書いていないこと」まで展開してしまう必要を感じるからだ。その道具として、「中枢」という概念と、そのコンピュータ・シミュレーションがある。》なぜドゥルーズは、「欲望機械」という概念から(「後退」とも感じられる)「有機体」に移行したのか。あるいは

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    ●バタバタ動いているというわけではないので忙しいという言い方は適当ではないかもしれないが、十一月の終わり頃からここ三週間くらいは、ぼくの処理能力としていっぱいいっぱいくらいの用事を抱えてあっぷあっぷな感じだったのが、ようやくそれらを期限までに終わらせられそうな目処がついてきた。あくまで目処だけど。 ●それで少し余裕が出来たので、清水高志さんの「カイエ・ソバージュ1」読書メモなどを読んでいた。 http://lizliz.tea-nifty.com/mko/2011/12/post-2f0a.html 以下は、メモに対する直接的な言及ではないけど、それを読んで、一昨日書いた抽象性の話をもう少し進めてみようと思った。 ●一昨日の日記で、アナロジーに対してメタファーを対比させたけど、普通は、メタファー(隠喩)はメトニミー(換喩)と対比される。清水さんのノートの(8)にあるように、「白雪姫」が隠喩

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    ●シャブロル『悪の華』をDVDで。以下、ネタバレあり。 冒頭というかオープニングで部屋の中でうずくまっている女性が誰なのか、うちの小さなテレビでは分からなかったのだが、あれは、妹でもあり、叔母さんでもあるということで良いのだろうか。この映画歴史(呪い)は反復するっていう話なのだけど、面白いのは、誰にとって反復なのかと言えば、それは叔母にとってだけ「反復」として現れるというところにあるのではないか。 ●ある父と息子がいて、ある母と娘がいて、その父と母が再婚するのだが、父は、再婚する女性の元夫の弟であり(つまりその女性-母は、元義弟と再婚した)、だから息子と娘は、戸籍上では兄と妹となるけど、血のつながり的にはイトコ同士である、という家族。さらに、母の元夫と、父の元とは関係があったらしい(二人一緒に事故で亡くなった)。その家族に独身である母方の叔母が同居している。 つまりこの再婚は、母の元夫

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    ●『輪るピングドラム』第21話。 ●冠葉が実は夏夏芽家の子供であるという事実、そしてラスト近くでの実の父の言葉(お前じゃ駄目だった)を鵜呑みにするのならば、冠葉には父との関係においてトラウマがあり、そしてそれは、冠葉の実の父と夏目家の祖父との関係を、冠葉の実の父と冠葉の関係が反復しているということでもある。高倉家における冠葉の位置、あるいは陽毬に対する冠葉の関係における過剰に「父」的な振る舞いはここに起因しているとも言える。そして冠葉における、高倉家の父からの承認の(幽霊を呼び出してまでの)反復的確認、さらに、高倉家の父が関わっていたKIGAとのつながりもまた、実の父との関係の失調を「高倉家の父」との関係において代替的に修復しようとしている結果だとも言える。つまり、冠葉の自己犠牲には、冠葉側の事情(彼を把捉している「父」という重力による原因)があり、桃果-苹果的な「飛躍」には至っていないこ

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    ●シャブロル『引き裂かれた女』をDVDで。冒頭から、フランソア・ベルレアンが上目使いで目つきが悪い。この人はこの映画ちゅうずっと上目使いの人だ。 個々の登場人物たちの思惑を(そして観客の予想や期待を)置いてきぼりにするかのように、話の軸がどんどん横滑り的にずれてゆく。最初は、小説家夫婦と女性編集者との三角関係のサスペンスなのかと思っていると、すぐに、小説家と金持ちのバカ息子との間での、地方のケーブルテレビ局でお天気キャスターをやっている女性を取り合う話になって、しかしその決着はあっさりついて、父親のような年齢の(いかにも好色な)小説家に娘くらいの年齢の女性がのめり込んで、翻弄される話となり、だが小説家は女性にすぐに飽きて女性から逃げ出し、傷心の女性と金持ちのバカ息子の関係の話になり、二人が結婚すると庶民の女性とブルジョア家庭との確執の話になって……、と話の軸が移動しつづけ、最後まで観ると、

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    ●DVDが出ていたので改めて『魔法少女を忘れない』(堀禎一)を観た。やはりすごく面白い。 最初に観た時に興奮しながら書いた感想 (http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20110518)。 ●この映画は、忘れられる側の話なのか、忘れてしまう側の話なのか。忘れてしまうということは、何かを忘れたということをも忘れてしまうとうことだ。しかし、忘れられた側は、忘れられたことを忘れることはない。そういえば前作『憐』もまた、未来から来たことによって接触したすべての人間から忘れられなければならない少女の話だった。 ●この映画で印象的なのは、見られる人であるより見る人であるように思う。みんなから愛され、しかしある瞬間から次々に忘れ去られていってしまう元魔法少女よりも、彼女を見る人である少年の方が印象的だ。彼を演じる俳優は何かを「見る顔」によって選ばれたのではないか。少

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    ●『シュタインズ・ゲート』のDVDの六巻目(14話から16話)をツタヤで借りてきて観たらやたらと面白くて、今までずっと、三話分収録のDVDが一か月に一ずつレンタルになるというペースで観ることをつづけていたのだけど、とうとう我慢出来なくなってネットに違法にアップされている動画を探して20話まで観てしまった。20話でとりあえず話に一区切りつくので、そこから先をつづけて観ることは抑制した。 (「ピングドラム」なんかも基的に同じだと思うけど)ここで語られている物語の要素の一つ一つは別に新しくないというか、むしろかなり陳腐なものとさえ言えると思うのだが(未来のディストピア的なあり様の設定とか、ありきたり過ぎるとは思う)、世界線の移動とタイムリープの組み合わせという新たな「物語世界の基ルール」を導入することで、物語の存在論的な位相がかわってしまっているように思う。 この物語は、ちょっと前に流行っ

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    gauqui
    gauqui 2011/11/30
    シュタゲ
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    ●メモ。『考える脳考えるコンピューター』(ジェフ・ホーキンス)、6章の前半。 ●新皮質は特定の仕事をする機能領域に分かれ、各領域は多数の軸索によってつながれている。軸索はその一部が電気パルスによって興奮を伝達する。この興奮の空間的分布と、分布の時間的変化が「パターン」を形成する。 ●各領域はそれぞれ層構造をなしており、例えば視覚野は「V1野」「V2野」「V4野」「IT野」の四層になっている。網膜からの情報はまずV1野に送られ、IT野まで順に階層を上って行く。V1野に送られる信号は常に流動的であり、視線を変えるたびに一秒に何度もそのパターンをめまぐるしくがらりと変える(視覚によって「認識」される対象はV1野が見ているものではない)。V1野のニューロンは決まったパターンにだけ反応する。例えばあるニューロンは「30度傾いた線分」にのみ反応する。それが傾いた木の幹でも「M」という文字でも区別はない

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    ●天気が良かったので電車に乗ってでかけ、アートプログラム青梅の屋外設置の作品を見てまわった。たっぷり午後いっぱいを使って、青梅駅から東青梅駅の間をマップを見ながら歩き回った。面白い作品もつまんない作品もあったけど、こういうのって、作品がどうこうよりも、人を歩き回らせるということがまず重要である気がした。はじめて(に近い)土地を迂回させながらぐるぐる歩き回らせる。それに、私道みたいな細い路地とか、高校の敷地のなかとかは、「作品を見る」という理由づけがない状態で、普通に散歩していたなら気になってもなかなか入っていけないけど、作品があれば堂々と入っていける。だからこういうイベントの場合、作家にとってまず重要なのは、どのような作品をつくるか(作品そのものが面白いか)というより先に、人をそこに誘いたい「面白い場所」を見つけることが出来るのか、ということなのではないか。面白い場所に誘ってくれたら、作品

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    gauqui
    gauqui 2011/11/27
    アートプログラム青梅のこと
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    ●メモ。『考える脳考えるコンピューター』(ジェフ・ホーキンス)、6章の後半、その2。 ●行動と知覚は高度に相互依存している。見たり、聞いたり、触れたりすることは、それをする人の行動に大きく依存する。新皮質の領域の第五層の細胞は、運動にかかわる旧脳の組織にも情報を流すことで行動を制御する。ある普遍の表現が階層を下るにしたがって複雑で詳細なシーケンスへと展開されてゆく流れは、「感覚」野でも「運動」野でもかわりはない。次に何を感じるのかという予測と、次に何を行うのかという行動への命令は分けることができない。《自分自身の行動が関与するとき、予測は感覚に先立つだけでなく、感覚そのものを決定する》。つまり、こう感じるためには、こう動く必要があると、考える。あるいは、こう動くならば、このような感覚入力があるだろうと、予測する。考えること、予測すること、行動することは、すべて同じシーケンスを展開したものと

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    ●メモ。『考える脳考えるコンピューター』(ジェフ・ホーキンス)、6章の後半、その1。 ●視覚野全体が四層の層構造になっているのと同様、もっと細かく分解して、新皮質にあるどの特定の領域(例えばV1野を構成する副領域のうちの一つなど)をみても、それらは六層からなる層構造となっている。 一番外側にある第一層は六層中最も特異であり、細胞が少なく、表面と平行にはしる軸索が大部分を占める。第二、第三層は似ていて、多数の錐体細胞がびっしりつまっている。第四、第五層にはそれぞれ特徴的な細胞が含まれ、第六層には形状の異なるニューロンがある。この六層には、層構造を縦に貫く軸索の単位(柱状構造)があり、それぞれの柱状構造で縦に結合された細胞同士は同じ刺激に反応する。一つの領域、副領域には何千という柱状構造が並ぶ。イメージとしては、毛足の短いブラシの毛のような柱状構造が層を縦に貫き、一番外側の第一層の部分は毛の方

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    ●『輪るピングドラム』第19話。とうとう陽毬が覚醒する。とはいえ、13話から16話くらいの展開がすご過ぎたためか、ここ2、3回の展開にはイマイチのれない感じがある。今回は絵もちょっと安定していなかった。だが今回までで、終盤の怒涛の展開への準備はととのったのではないかと思う。 ●ここまでの19話では、前半は苹果と晶馬の存在が作品を引っ張っていて、中盤過ぎから、「あの事件」やサブキャラと思われていた人物たちのまさかの活躍(加えて東京スカイメトロの登場)などで作品世界がひっくり返るような驚きの展開がありつつ、その裏で冠葉がじわじわと苦しい立場に追い込まれてゆくという感じだった。ここへきて「運命」の問題は完全に苹果から陽毬へと移行し、これからラストに向けていよいよ覚醒した陽毬がどれくらいやってくれるのか。 ●桃果という不在の特異点は、まず苹果に憑りついて、彼女の暴走を誘発し、その暴走の果ての覚醒を

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    ●メモ。『考える脳考えるコンピューター』(ジェフ・ホーキンス)、4章、5章。 脳のニューロンの反応はきわめて遅く、一秒に二百回程度の処理しかできない(コンピューターは一秒に十億回の演算ができる)。では何故、並列コンピューターを使って行う何兆というステップでも出来ない難問を脳が解くことができのか。それは、脳が「計算する」システムではなく「記憶する」システムであり、答えを「記憶」から引き出してくるからだという。《ニューロンはそれを蓄えるのであって、計算するのではない》。 ●新皮質による記憶の、ハードディスクやメモリーチップとの違いは、次の四つだとする。 (1)新皮質はパターンのシーケンスを記憶する。 (2)新皮質はパターンを自己連想的に呼び出す。 (3)新皮質はパターンを普遍の表現で記憶する。 (4)新皮質はパターンを階層的に記憶する。 4章、5章で(1)から(3)までが説明される。(4)につ

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    ●『輪るピングドラム』第18話。うーん、今回は正直あまり面白くなかった。多蕗の過去はもっとふくらみがあるのかと思っていたのだが、時籠や夏芽の過去にくらべて、物語的にも表現的にも凡庸なところに落とし込んでしまっていて、ブラック多蕗というか、多蕗の裏面をここまで引っ張っておいてこれでは拍子抜けと言うしかない。一応「手」が主題の回だと言えるけど、その主題である「手」が導入される物語的根拠が(そして多蕗の「手の傷」という伏線の落とし方としても)これでは弱すぎると思う。 それに「こどもブロイラー」という形象が物語的な装置として曖昧というか、物語としてちゃんと作り込まれていなくて中途半端な比喩的表現にしかなっていない。いらなくなった子供→透明な存在→こどもブロイラーっていうところには、ひねりも独創も感じられない。物語的具体性が弱いし、心理的な表現としても冴えていない。物語上で実際に多蕗が「こどもブロイ

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    ●お知らせ。七日発売の「新潮」12月号に、『不愉快なの続編』(絲山秋子)の書評(「隣接と反転、隠蔽と欠落」)を書きました。絲山秋子を、新格のように(というか麻耶雄嵩を読むように)読んでいます。 ●「アーキテクチャーとクラウド」に載っている柄沢佑輔と掬矢吉水の対談を読んでいて、柄沢氏の次のような発言で目がとまった。 《そこでは「虚の不透明性」という概念を出しました。コーリン・ロウという建築史家が、ル・コルビュジエの建築を分析して、迷路のような建物をさまよった挙句に、その図面が透明性を持って頭の中に浮かぶことを「虚の透明性」という概念で表し、有名になりました。しかもそれは近代建築特有の空間的特徴だと言っています。対して情報空間的な建築では、それがひっくり返り、最初からすべてわかってしまうガラスの箱みたいなものの中を歩いていくと、身体が迷路のようなものを知覚し、不透明な像が後から頭のなかに立

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    ●『輪るピングドラム』第17話。ずいぶんと話が煮詰まってきた。今回は、驚きの展開というわけでもなく、大きな何かが提出されたわけでもなく、物語的には次につなげてゆくブリッジのような回だと言える。だがそのかわりに、視覚的な次元では盛りだくさんにいろんなものが詰め込まれている。 ●地下鉄、病室でたこ焼き、生存戦略(大切なものが損なわれる…)、時籠と多蕗の会話(回想)、サネトシのモノローグ(もうすぐ戦争が…)、陽毬のいなくなった病室、毛糸を探す陽毬と苹果(絡む時籠)、陽毬を探す冠葉と晶馬、時籠と夏芽の対決、多蕗に連れ出される陽毬と苹果(危機)。わずか三十分足らずの時間で、これだけの事柄が語られる。かなりバラけた展開にもみえるが、物語の基線が、家族団らん→不吉な予言(大切なものが損なわれる)→陽毬の消失→陽毬を探す双子→陽毬の危機という流れで、もう一方に時籠と多蕗の過去の事情(感情)と、二人それぞ

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    ●国立新美術館で「モダン・アート、アメリカン」展、東京都現代美術館でMOTコレクション展「布に何が起こったか」を観た。 ●「モダン・アート、アメリカン」展は、期待していたほどは良い展示ではなかった。ただ、一つ強く思ったのは、アメリカにおけるキュビズムの受容の正確さと高度さということ。アメリカの画家たちは同時代でキュビズムがちゃんと分かっていた、と。しかし、正確で高度であればあるほど、それが結局「模倣」に過ぎないという感覚も強く出てくることになる。だがここで重要なのは、キュビズムの正確で高度な受容を通じて、絵画の形式性に対する高い意識とリテラシーが形成されていって、それが(キュビズムとは異なる形式性をもつ)アメリカ型フォーマリスム絵画の開花へと繋がっていったのだろうということ。まさに、キュビズムが(弁証法的な意味で)否定的な媒介となってアメリカ型フォーマリスムが生まれたのだ、ということがすご

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    gauqui 2011/11/04