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2009年12月15日のブックマーク (2件)

  • 日本国憲法の平和主義とオバマ米大統領の平和思想: 極東ブログ

    オバマ米大統領のノーベル平和賞授賞式演説について、日のマスコミでもブログの世界でもそれほど話題になっていない印象がある。私はダルフールのジェノサイドを「ジェノサイド」と明確に言明し、その犯罪責任を曖昧にしないこの演説に感銘を受けた。同時に、彼の平和思想の起源と、日国憲法の平和主義の類似性について関心を持った。思いが拡散してしまう前にメモ書きをしておきたい。 オバマ米大統領のノーベル平和賞授賞式演説だが、その主要テーマは何であろうか? この演説をオバマ米大統領の平和主義と呼んでよいだろうか? その前提となる平和主義とは何か? いろいろと曖昧な問題が複数立ち上がる。そもそも平和主義という概念が成立するのか? 成立すると見てよい。その場合、コアとなる概念は、暴力・武力放棄による紛争・対立の解決となるように思われる。 この時点でまた疑問が二点浮かぶ。武力の放棄は平和主義の質のなすものだろうか

    ggg123
    ggg123 2009/12/15
    国連とかの理念ぽい。
  • 表現の自由はサイコーだ! - 地下生活者の手遊び

    前回エントリを補足。 自由の敵としての差別 自由の敵はなにも公権力ばかりではにゃーよな。 喩えるのなら、公権力による自由の抑圧がまるでハンマーのように自由を外側から破壊するものといえるのなら、酸が機械をおかすように毒が生体をむしばむように自由を侵し腐敗させるものがあるのですにゃ。 それを差別という。 BE FREE! - 地を這う難破船においては、上記のような認識が語られていましたにゃ。何箇所か抜粋すると 「自由」とは差別の撤廃と同時に達成されることであり、また達成されてきたことです。そして、当然のことながら、この社会では達成されていないどころか「遠い夜明け」でしかない。 すなわち、このような性差別ある限り、女性にとって「自由」などない。 そして、男性にとっても「自由」などないことに気が付いた多くの男性がいる。 「自由」は、自他の政治的/社会的身体における決定的な非対称性を「私の勝手」「

    表現の自由はサイコーだ! - 地下生活者の手遊び
    ggg123
    ggg123 2009/12/15
    人間は不自由だにゃー。