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ブックマーク / blog.tatsuru.com (19)

  • 『福田村事件』 - 内田樹の研究室

    ある媒体から『福田村事件』についてのコメントを求められたので、こんなことを話した。 関東大震災時に起きた虐殺事件を描いた映画『福田村事件』が公開中である。私は、この映画のクラウドファンディングに参加しており、作を応援する者として、この映画を1人でも多くの人に観てもらいたいという思う。 作はオウム真理教を描いた『A』『A2』、『FAKE』など良質なドキュメンタリー作品を数多く手掛けてきた森達也監督の初の商業劇映画である。私がクラウドファンディングに出資しようと思ったのは、扱いの難しい題材をエンターテイメント作品として撮ろうという森監督の野心を多としたからである。 福田村事件とは、1923年9月1日に発生した関東大地震の5日後、千葉県東葛飾郡福田村に住む自警団を含む100人以上の村人たちにより、利根川沿いで香川から訪れた被差別部落出身の行商団のうち、幼児や妊婦を含む9人が殺された事件のこと

  • レヴィナス『モーリス・ブランショ』新装版のためのあとがき (内田樹の研究室)

    「新装版のためのあとがき」 最初に出てから23年後にエマニュエル・レヴィナスの『モーリス・ブランショ』が復刻されることになった。初版が出たときにもさして売れず、絶版になっていたが、四半世紀を閲して再び日の目を見ることになったわけだから、レヴィナス先生も草葉の陰からきっとお喜びくださるだろう。 書の復刻に少し先行して『タルムード四講話』『タルムード新五講話-神聖から聖潔へ』の新装版が人文書院から出た。ブランショ論もタルムード釈義もトピックとしてはあまり(というか全然)アクチュアルではない。どうひいき目に見ても、2015年の日の思想状況が待ち望んでいるコンテンツには思えない。それが復刻されるということは、どこかに潜在的な読者がいるのだろう(この「あとがき」を読んでいるあなたは間違いなくその一人である)。 レヴィナスをぜひ今読みたいと思っている日人読者がどれくらい存在するのか、なぜレヴィ

    レヴィナス『モーリス・ブランショ』新装版のためのあとがき (内田樹の研究室)
  • 「若者よマルクスを読もう」中国語版序文 - 内田樹の研究室

    マルクスのために 『若者よマルクスを読もう』の中国語版の序文を求められましたので、「中国でマルクスを読むことの意義」についてひとこと書いてみたいと思います。 このは日語で出版されたすぐあとに韓国語に訳されました。これには少し驚きました。ご存じのように、日韓国はここ数年外交関係があまり友好的ではないからです。日の書店には「反韓・嫌韓」がずらりと平積みになっており、東京や大阪のコリアン・タウンにはレイシストのグループがおしかけて、「韓国人、朝鮮人は死ね」というような激烈な排外主義的なヘイトスピーチを繰り広げています。竹島(独島)の領有をめぐっては日韓国が激しい言葉を応酬しあっています。 そういう状況下で、僕と石川康宏さんの共著『若者よマルクスを読もう』が出版直後に翻訳されたというのは興味深いトピックだと思います(もちろん、日のメディアは一行も報じてくれませんでしたが)。 実を

  • 「学力と階層」解説 - 内田樹の研究室

    苅谷剛彦さんの『学力と階層』が朝日文庫から文庫化されて出た。その解説を書いた。 苅谷さんの「意欲格差」や「学習資」というアイディアに私はつよい影響を受けており、『下流志向』や『街場の教育論』で展開した考想は苅谷さんの『階層化日教育危機』がなければ書かれなかったはずのものである。 その感謝をこめて書いた解説である。とりあえずこれを読んでから、書店に走ってください。 最初に読んだ苅谷剛彦さんのは『階層化日教育危機』で、その頁を開いたのは、講演のために東京から千葉に向かう総武線の車内でのことだった。手に赤鉛筆を持って、傍線を引きながら読み進んだ。しだいに赤線が増えてきて、ついに一頁全体が真っ赤になったころに、降りる駅についた。を閉じるときに、文字通り「後ろ髪を引かれる」思いがしたことを、駅前の寒空とともに身体がまだ記憶している。 日教育危機の実相について、私の現場の実感とこれほ

  • マンガ脳 - 内田樹の研究室

    大学院で「マンガ」の話をする。 日語と日の宗教の「辺境性」についてのプレゼンテーションだったのだが、いつのまにか「日人の脳」の話から、マンガの話になってしまった。 日語は「漢字とかなを混ぜて書く」言語である。 漢字は表意文字であり、かなは表音文字である。 この二つを脳は並行処理している。 アルファベットは表音文字であるから、欧米語話者はそんな面倒なことはしない。 けれども、そのせいで変わったことが起きる。 表意文字は「図像」であり、表音文字は「音声」であるから、これを記号処理する脳の部位は当然違う。 失読症というのは、脳の疾患によって文字が読めなくなる症状である。 欧米語話者は失読症になると、まったく文字が読めなくなる。 しかるに、日語話者は二種類の病態をとる。 漢字が読めなくなって、かなだけが読める症状と、かなが読めなくなって、漢字だけが読める症状である。 それから、漢字を読ん

  • 選書しました - 内田樹の研究室

    技術評論社の安藤さんから「若い読者のための選書60冊」を頼まれた。 屋さんで『最終講義』の刊行イベントとして、お薦めのを選んで、それを並べて、あわせて買って頂こうという趣旨のものである。 を選ぶのはたのしい仕事なので、さくさくと60冊選んだ。 もうフェアは終わってしまい、「どんなを選んだのか知りたい」という人からメールがあったので、ご参考のために掲げるのである。 こんなのでした。 「日および日人論」として読むべき(35) 『福翁自伝』(福沢諭吉) 『明治十年 丁丑公論・痩我慢の説』(福沢諭吉) 『氷川清話』(勝海舟) 『柳北奇文』(成島柳北) 『勝海舟』(子母沢寛) 『竜馬がゆく』(司馬遼太郎) 『坂の上の雲』(司馬遼太郎) 『ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書』(石光真人) 『澁江抽斎』(森鴎外) 『断腸亭日乗』(永井荷風) 『「坊っちゃん」の時代』(関川夏央・谷口ジロー

  • 多数派であることのリスクについて - 内田樹の研究室

    神戸新聞に隔週で「随想」というコラムを書いている(これが二回目)。神戸新聞を読んでいない方のために再録しておく。 これは先週書いたもの。 橋下大阪府知事は、持論である大阪都構想に賛成の市職員を抜擢し、反対する市職員を降格するためのリスト作りを維新の会所属の大阪市議に指示した。 首長選の候補者が選挙に先立って公約への賛否を自治体職員の「踏み絵」にするというのは異例の事態である。 公務員が遵守義務を負うのは、憲法と法律・条例と就業規則だけのはずである。「大阪都」構想は、その当否は措いて、今のところ一政治家の私念に過ぎない。それへ賛否が公務員の将来的な考課事由になるということは法理的にありえまい。 まだ市長になっていない人物が市職員に要求している以上、これは彼に対する「私的な忠誠」と言う他ない。彼はそれを「処罰されるリスクへの恐怖」によって手に入れようとしている。 私はこの手法に反対である。 脅

  • 情報リテラシーについて - 内田樹の研究室

    朝日新聞の「紙面批評」に書いたものを再録する。 長すぎたので、紙では数行削られているが、これがオリジナル。 「情報格差社会」 情報格差が拡大している。一方に良質の情報を選択的に豊かに享受している「情報貴族」階層がおり、他方に良質な情報とジャンクな情報が区別できない「情報難民」階層がいる。その格差は急速に拡大しつつあり、悪くするとある種の「情報の無政府状態」が出現しかねないという予感がする。このような事態が出来した理由について考えたい。 少し前まで、朝日、読売、毎日などの全国紙が総計数千万人の読者を誇っていた時代、情報資源の分配は「一億総中流」的であった。市民たちは右から左までのいずれかの全国紙の社説に自分の意見に近い言説を見いだすことができた。国民の過半が「なんとか折り合いのつく範囲」のオピニオンのうちに収まっていたのである。これは世界史的に見ても、かなり希有な事例ではないかと思う。 欧

  • 学ぶ力 - 内田樹の研究室

    「学ぶ力」という文章を書きました。中学二年生用の国語の教科書のために書き下ろしたものです。が届いて、読んでみたら、なかなか「なるほど」と思うことが書いてあったので(自分で言うなよな)、ここに再録することにします。 中学二年生になったつもりで読んでね。 「学ぶ力」 「学ぶ力」 日の子どもたちの学力が低下していると言われることがあります。そんなことを言われるといい気分がしないでしょう。わたしが、中学生だとしても、新聞記事やテレビのニュースでそのようなことを聞かされたら、おもしろくありません。しかし、この機会に、少しだけ気を鎮めて、「学力が低下した」とはどういうことなのか、考えてみましょう。 そもそも、低下したとされている「学力」とは、何を指しているのでしょうか。「学力って、試験の点数のことでしょう」と答える人がたぶんほとんどだと思います。ほんとうにそうでしょうか。「学力」というのは  「試

  • personal power plant のご提案 - 内田樹の研究室

    関西電力は10日、大企業から一般家庭まで一律に昨夏ピーク比15%の節電を求めた。 どうして、一律15%削減なのか。関電がその根拠を明示しないことに関西の自治体首長たちはいずれもつよい不快を示している。 関電の八木誠社長は会見で、節電要請は原発停止による電力の供給不足であることを強調した。 しかし、どうして首都圏と同じ15%で、時間帯も午前9時から午後8時までと長いのか。 会見では記者からの質問が相次いだが、関電から納得のいく説明はなかった。 関電は経産省からの指示で、今夏を「猛暑」と予測し、電力需要を高めに設定している。 だが、同じ西日でも中国電力などは「猛暑」を想定していない。 また、震災で関西へ生産拠点が移転することによる電力需要増や、逆に、震災で販路を失った関西企業の生産が減少する場合の電力需要減などの増減予測については、これを示していない。 15%の積算根拠としては、猛暑時の電力

  • エマニュエル・レヴィナスによる鎮魂について - 内田樹の研究室

    大学院のゼミも残すところ3回。 今期は私の書きものを一冊選んで、それについて発表者がコメントするという形式を採っている。 昨日は前田さんが『困難な自由』を選んで、発表してくれた。 『困難な自由』はレヴィナスの著作で、私の書きものではないが、私が最初に手に取ったレヴィナスの著作であり、それにうちのめされてやがて「弟子入り」に至る、私にとってはまことにエポックメイキングなテクストである。 個人的にはきわめて思い入れのあるなので、1985年と2008年と二回翻訳を出している。 前田さんが著作の紹介と、その中の「来るフレーズ」のご披露のあと、訳者への質問をご用意くださったので、それにお答えするかたちでゼミを進めることになった。 おおかたのゼミ生は『困難な自由』そのものを読んでいないので、についての注釈ではなく、もっぱら、私がこの著作からどのような影響を受けたのかというパーソナルな話題に終始した

  • コピペはダメだよ、について - 内田樹の研究室

    卒論を読んでコメントをつけて返すという仕事をしている。 疲れる。 ほとんど同じことをどの学生についても書いているからである。 「出典の書誌情報を明記しなさい」 この二年間、ことあるごとにゼミで言っているのだが、ほとんどの学生はそのほんとうの意味は理解していない。 それをたぶん「ズルをしてはいけません」という警告のように聴いているのだろうと思う。 「カンニングするな」とか「授業中私語をするな」とか「教室でカップ麺をべるな」というような注意と同列のものだと、たぶん思っている。 しているところを見つかったら叱られるけれど、見つからなければどうってことない、とたぶん思っている。 それでいったい誰が困るというのよ、とたぶん思っている(キムチ味のラーメン臭が教室に漂っていると、次の授業に教室を使うものは苦しむぞ)。 自己利益の追求を優先させることは悪いことではない、と教えられてきたからである。 自己

  • 2010年の重大ニュース - 内田樹の研究室

    大晦日恒例の2010年の重大ニュース。 さて、今年は何があったのでしょうか。 (1)『日辺境論』で2010年度新書大賞を頂いた。 『私家版・ユダヤ文化論』で2007年の小林秀雄賞を頂いたのに続いての受賞。 「言葉が読み手に届く」ということが私がものを書くときにいちばん気に懸けていることだが、それが「届いた」らしいということが、何よりうれしい。 (2)書いたものが外国語に訳された。 フランスの雑誌から農業についてのエッセイを訳したいというオッファーがあった。ドイツの雑誌からは「日人の自殺」についてのエッセイの寄稿を求められた。 ヨーロッパの言語に訳されるのははじめてである(ユーロで原稿料が振り込まれたのも)。 これまで中国語では『村上春樹にご用心』が中国台湾で、名越先生との『十四歳の子を持つ親のために』が台湾で、『下流志向』は台湾韓国で訳された。 今年は『若者よマルクスを読もう』と『

  • 無垢の言語とは - 内田樹の研究室

    クリエイティヴ・ライティングでバルトの「ランガージュ論」についてお話しする。 この授業、ほんとうは少人数で、毎回課題を出して書いてもらい、それをみんなで分析するというインタラクティブなかたちで進めたかったのだが、履修希望者が多すぎて、90人に受講者を絞って講義形式でやっている。 90人分の書きものを読んで、それぞれに適切に書き方の指導することは、いまの私にはできない(高橋源一郎さんならできるかもしれないけど)。 でも、講義形式では講義ならではの緊張感がある。 それは「つまらない話をすると学生さんたちは寝ちゃう」ということである。 どういうトピック、どういう語り口のときに学生たちはばたばたと机につっぷし、何を話しているときに眼がきらりと光って(ほんとに光るのである)一斉にペンを動かしてノートを取り始めるか、それを教壇で私は身体的に確認することができる。 彼女たちは「いま生成した言葉」に鋭く反

  • エクリチュールについて(承前) - 内田樹の研究室

    エクリチュールについて(承前) ロラン・バルトのエクリチュール論そのものが、そのあまりに学術的なエクリチュールゆえに、エクリチュール論を理解することを通じてはじめて社会的階層化圧から離脱することのできる社会集団には届かないように構造化されていた・・・というメタ・エクリチュールのありようについて話していたところであった。 同じことはピエール・ブルデューの文化論についても言える。 『ディスタンクシオン』もまた、(読んだ方、あるいは読もうとして挫折した方は喜んで同意してくださると思うが)高いリテラシーを要求するテクストである。 おそらく、ブルデュー自身、フランス国内のせいぜい数万人程度の読者しか想定していない。 自説が理解される範囲はその程度を超えないだろうと思って書いている(そうでなければ、違う書き方をしたはずである)。 だが、「階層下位に位置づけられ、文化を持たない人には社会的上昇の

  • リーダビリティについて - 内田樹の研究室

    昨日書いた「エクリチュール」論について、ツイッターの方に、「そういう内田自身の書いている文章のリーダビリティはどうなのか?」という疑問が寄せられた。 それはたして「階層下位に釘付けにされているものにも届くように書かれているのか?」 そういう問いかけはもちろん有効である。 私自身が昨日書いたブログの文章は決して読みやすいものではない(漢字が多いし、英語も使いすぎる)。 けれども、それにもかかわらず、万人に開かれた「不可能な言語を夢見て」書かれているという点において、文化の排他的な蓄積を回避することをめざしている点において、「リーダブルであること」は私の書きものの変わらぬ目標である。 リーダブルな文章というのは「わかりやすい文章」ということとは違う。 「ロジカルな文章」というのとも違う。 ましてや「簡単な言葉が使ってある文章」のことではない。 どれほど難しい術語が用いられていても、どれほど

  • 最終講義とパーティのおしらせ - 内田樹の研究室

    みなさん、こんにちは。 私の神戸女学院大学の在任期間も、あと5ヶ月を切りました。 つきましては、1月22日(土)に最終講義と引き続き茶話会とパーティを予定しております。 お時間のあるかた、ぜひおいでくださいませ。 最終講義  15時より16時 (於・神戸女学院大学講堂) 茶話会   16時半より17時半 (於・めじラウンジ) パーティ  18時半より (於・宝塚ホテル) 最終講義と茶話会はどなたでも参加いただけます。ただホテルでのパーティの方は準備のつごうがございますので、事前にお申し込みをいただくことになっております。 つきましては、指定のURLによって事務局あてにお申し込みをお願いいたします。 お申し込み先は https://nakanoshima-univ.com/uchida/ パーティの参加条件は (1)内田ゼミの人(専攻ゼミ、基礎ゼミ、文献ゼミ、大学院聴講生の在籍者、卒業生 (

  • エクリチュールについて - 内田樹の研究室

    クリエイティブ・ライティングは考えてみると、私が大学の講壇で語る最後の講義科目である。 80人ほどが、私語もなく、しんと聴いてくれている。 書くとはどういうことか。語るとはどういうことか。総じて、他者と言葉をかわすというのは、どういうことかという根源的な問題を考察する。 授業というよりは、私ひとりがその場であれこれと思いつくまま語っていることを、学生たちが聴いているという感じである。 「落語が始まる前の、柳家小三治の長マクラ」が90分続く感じ・・・と言えば、お分かりになるだろうか。 昨日のクリエイティヴ・ライティングは「エクリチュール」について論じた。 ご存じのように、エクリチュールというのはロラン・バルトが提出した概念である。 バルトは人間の言語活動を三つの層にわけて考察した。 第一の層がラング(langue) これは国語あるいは母語のことである。 私たちはある言語集団の中に生まれおち、

  • リンガ・フランカのすすめ - 内田樹の研究室

    大学院のゼミで、シェークスピアの受容史について論じているときに(いったい何のゼミなんだろう)通訳翻訳コースの院生から、私の論の中にあった「言語戦略」という概念についての質問を受ける。 言語は政治的につよい意味を持っている。 母語が国際共通語である話者は、マイナー語話者(たとえば日語話者)に対してグローバルな競争において圧倒的なアドバンテージを享受できる。 なにしろ世界中どこでも母語でビジネスができ、母語で国際学会で発表ができ、母語で書かれたテクストは(潜在的には)十億を超える読者を擁しているのである。 自国のローカルルールを「これがグローバル・スタンダードだ」と強弁しても、有効な反論に出会わない(反論された場合でも、相手の英語の発音を訂正して話の腰を折る権利を留保できる)。 だから、自国語を国際共通語に登録することは、国家にとって死活的な戦略的課題である。 ご案内のとおり、20世紀末に、

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