喜連(きれ) 喜連は、1798年(寛政10年)刊行の「古事記伝」に「河内の堺なり、昔は河内に属して、万葉に河内国伎人郷とある處なるを、久礼を訛って喜連と云うなり」と記され、かつては伎人郷とよばれ河内の国に属していた。のちに久禮と語られ、中世室町時代ごろから喜連とよばれるようになった。また、古き時代、呉の国から来た機織の技術者、呉織・穴織等の呉人が、この地に住みついたので、「くれ郷」となり、それがなまって「きれ」になったという説もある。 現在使われている「喜連」の文字は、地名を漢字で表す際、美しい・喜ばしい意味を持つ字を使う習慣から用いられたと言われている。 瓜破(うりわり) 大化年間(645~649年)道昭法師が当地の庵で祈念の最中、天から光明のさしたご神体が降ってきたので、瓜を割(破)ってお供えしたことから瓜破と呼ぶようになったという説と弘法大師が高野山へ登る途中、この地を通り、水を所望