この法令は「散髪制服略服脱刀共可為勝手事」として髪型については自由にしたうえ、華族・士族が刀を差さなくても構わないとした。なお、平民の帯刀については1871年2月16日(同年12月27日)に改めて禁止令を出している。 一方で、「但禮服ノ節ハ帯刀可致事」では、礼服では引き続きは帯刀するべきとしている。 当時は幕末に洋式軍制の導入が始まって以後、髷(まげ)を結わずに散髪する風潮が広まりつつあった。 散髪脱刀令は「髪型を自由にして構わない」という布告であり、髷を禁止して散髪を強制する布告ではなかったが[1]、1873年(明治6年3月)には明治天皇が散髪を行い、官吏を中心にこれに従う者が増えていった。 一方で、島津久光・忠義親子や榊原鍵吉のように布告以降も髷を結った者もいた。忠義は髷姿で大日本帝国憲法発布式典に出席している。また、政府の重鎮であった岩倉具視は、1871年(明治4年11月)に岩倉使節
