マクロコンテクストと行為論 ボクがマクロコンテクストと呼ぶのは、均質な個の集団が偶然にさらされている(自由状態)ことで全体秩序が生まれることが前提とされている文脈。 マクロコンテクストは近代化の中で人々が突き付けられた現実である。自分は多くの一部としての権利がある、自分は多くの一部としての義務がある。これが現代人においても社会秩序の基本原理になっている。 なんだかんだいってボクの思考の興味は二つに集約される。一つはマクロコンテクスト、資本主義の基盤としていかに生まれ働いているか、もう一つは認知主義の限界としての行為論。行為の一部として認知があるが、実際は転倒されている。 ではマクロコンテクストと「転倒された行為論」の関係は?たしかに行為は記述が困難であるから、活字文化としての近代文明では、ないものとなるだろう。 近代化はマクロコンテクストによる合理化なわけだけど、合理化が進むほど残余として