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2020年11月6日のブックマーク (9件)

  • http://www.nokyo.or.jp/enkakushi/pdf/1-No16.pdf

    h0z8
    h0z8 2020/11/06
    久しく待望して実現しそうにない村山軽便鉄道(現在の左沢線) 敷設を利用し、柏倉九左工門、多田理助、白田省吾、…
  • 現役では日本一古い明治時代の橋桁 JR左沢線篇

    鉄道が主役の旅スタイルを応援する見どころ案内 [場所]JR左沢線 羽前長崎-南寒河江 最上川は山形県のみを流れる流路延長229km一級河川だが、この川には明治時代に製造された橋桁を移設使用している現役の鉄道橋梁が何と2ある。そのうちの1は山形鉄道フラワー長井線 四季の郷-荒砥 間に架かる最上川橋梁(荒砥鉄橋)で、サイト2015年9月30日アップ「東海道線揖斐川橋梁に並行して架かる謎の橋」の中で少し触れている。 さて、この回で紹介するのはもう1の方、JR左沢線 羽前長崎-南寒河江 間に架かる最上川橋梁だ。 左沢線最上川橋梁は、左沢(写真右・北)側の桁5連が元・木曽川橋梁のダブルワーレントラス。車輛はキハ101形。タイトルとの連続写真になる。左沢側橋門構に近づいて撮った橋梁全景。カメラレンズの画角の関係から全体を入れるための寄りだが、近づきすぎた。JR左沢線の最上川橋梁は1921年(

    現役では日本一古い明治時代の橋桁 JR左沢線篇
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    h0z8 2020/11/06
    “現役鉄道橋梁としては上記山形鉄道の最上川橋梁の橋桁とともに日本最古の橋桁になる。”
  • 出口王仁三郎 文献検索

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    h0z8 2020/11/06
    大本史料集成 全3巻 1982.06(第1巻)、1982.09(第2巻)、1985.08(第3巻 神聖会日誌昭和10年1月 池田昭・編昭和十年“一月十二日… 四国へ出張したる高川氏帰京、副統管に復命す。 多田理助氏他六名来訪。”
  • 出口王仁三郎 文献検索

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    h0z8 2020/11/06
    大本史料集成 全3巻 1982.06(第1巻)、1982.09(第2巻)、1985.08(第3巻 神聖会日誌昭和9年11月 池田昭・編“十一月一日…多田理助氏(山形市)来訪。山形地方本部設立に関して出口副統管と協議。”
  • 蔵王県境事件のころから 私たちは何歩進んだのか » bunanomori

    私たちが暮らす山形県という地域は、どういうところなのか。その政治風土や県民性を考える時に忘れてならないのは、「蔵王県境移動事件」である。 半世紀以上も前に起きた事件だが、山形県の政治や経済、社会の特質をこれほど雄弁に物語るものはほかにない。地元の支配的企業グループに便宜を図るため、秋田営林局と山形営林署は山形、宮城の県境を勝手に移動させた。そして、山形県当局もグルになってそれを押し通そうとした。信じがたいような出来事だ。 事件が起きたのは1963年である。 蔵王連峰を横断する道路「蔵王エコーライン」が前年に開通したのを機に、山形市の観光バス会社「北都開発」が蔵王の「お釜」(写真)に通じるリフトの建設を計画した。建設予定地は山形営林署が管轄する国有林内だった。そこで、北都開発は営林署に用地の貸付申請をし、山形県にはリフト建設の届け出をした。 すると、山形営林署長は同じように観光リフトの建設を

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    h0z8 2020/11/06
    “救いの神は、意外なところから現れた。地図の専門家が「山形地裁の判決は間違っている」と明言した、という情報が佐藤欣哉弁護士のもとに寄せられたのだ。会ってみると、彼はその理由を明快に語ってくれた
  • 【コロナショック】ローン返済に銀行が「柔軟な支援体制」その理由(マネーの達人) - Yahoo!ニュース

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    h0z8 2020/11/06
    “タダではリスケできない”
  • 生活綴方運動の旗手・教育者国分一太郎のホームページ 

    ◎『生活綴方運動の旗手・教育者国分一太郎のホームページ』へ ようこそ! ◆ 2011年7月23日(土)、24日(日)、多くの方々の参加のもと、記念碑の除幕、生誕100年の集い、記念文集の発行、第7回 国分一太郎「教育」と「文学」研究会の実施等、「国分一太郎生誕100年記念」の事業を無事終了することができました。詳細は、メニューの 「生誕100年記念事業」にまとめてあります。 ◆ これによって、国分一太郎の生誕100年を記念する事業の成功のため   に役立つ「場」とする、というホームページの第一の役割が終了しました。 ◆ これからは、もう一つの目標、教育者 国分一太郎の生涯を 長い、長い叙事詩のように映し出していくこと、国分一太郎の思想を語り継いでいく仕事に邁進してまいりたいと考えます。そのため、これまで『国分一太郎生誕100年記念ホームページ』としていた当ホームページの名称を『生活綴方運

  • 山田ときさんを偲ぶー5   「子どもと生きようとして➁」 - ツルピカ田中定幸先生

    教育・作文教育・綴り方教育について。 神奈川県作文の会 綴方理論研究会 国分一太郎「教育」と「文学」研究会 山田ときさんを偲ぶー5 ー 子どもと生きようとして ー➁ そのころ(注―昭和11年頃・野村芳兵衛を中心に『生活学校』を創刊〈10年〉)、いわゆる生活綴方運動は、その絶頂に達し、国分先生は東北地方の先生たちとの連絡に大わらわだった。また、全国的なつながりも密接になり、よく文集や手紙が学校に 送られてきた。『綴方生活』『生活学校』『工程』などの雑誌も、つぎつぎと送られてきた。わかい人たちの教室交流もさかんだった。だから、私も、そういうものを見せてももらうことが 多くなり、師範学校などでは、習わなかった教育の考え方に、少しずつ目をひらかれていった。 しかし、山形県というところは、とてもめんどうなところだし、今は亡くなった村山俊太 郎先生なども、意見の発表を封じられていたので、国分先生たちは

    山田ときさんを偲ぶー5   「子どもと生きようとして➁」 - ツルピカ田中定幸先生
  • 「路ひとすじ」・山田ときさんを偲ぶー1 - ツルピカ田中定幸先生

    教育・作文教育・綴り方教育について。 神奈川県作文の会 綴方理論研究会 国分一太郎「教育」と「文学」研究会 昨日の寒さから、うってかわって、今日は、春。いや、初夏の感じがするほどに気温が上がっている。 今日から、彼岸のいり。あわててきのう、先祖のお墓のそうじをすませた。つくしがあちこちに芽をだしていた。 山田ときさんが、1月22日に亡くなられた。「女教師」の『路ひとすじ』に歩んでこられたときさんは、今は、どんな路をあゆんでおられるのであろう。 亡くなられあと、の2月3月は、めずらしく多忙で、あわただしく過ごしてしまった。 ちょうど、彼岸にはいったので、このブログでもふれさせていただき、ときさんのご冥福をあらためて祈りたい。 ときさんが亡くなられた連絡は、国分一太郎の生家をついでいる国分一太郎の弟正三郎さん長男恵太さんからの連絡だった。そして、以下のような連絡をいただいた。 田中様 いつもお

    「路ひとすじ」・山田ときさんを偲ぶー1 - ツルピカ田中定幸先生
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    h0z8 2020/11/06
    【h0z8メモ】