2009年8月28日の朝、私は、27年来の知己であったマーホの埋葬の場にいた。再定住村コエンシャケネの端にある広大な墓地の一画に掘られた穴に棺は降ろされた。四人の男女がスコップを持ち、砂を穴に放りこんだ。めかしこんだ女たちの一団が賛美歌を歌い続けた。私はビデオカメラを回しながら、そのメロディを美しいと感じ、同時に、そう感じたことが悔しかった。 1982年8月に、南部アフリカのボツワナに住む狩猟採集民グイ/ガナの調査を始めて間もなく、私はマーホを調査助手として雇った。彼にまつわる幾つかの大切な記憶はあるが、この小文はそれを語る場ではない。あの葬儀の朝、賛美歌が歌われるのを聞き、地球上の数えきれない場所で、これに類した歌によって人の死が弔われていることを思い、私は暗澹とした気分になった。以下の論述は、この気分を出発点としている。 人類学者が母国の民衆に対して帯びているもっとも重い責任は、「人間
![菅原和孝 人間・環境学研究科教授 「生のハリウッド化に抗えるのか?」(2009.12.16) | 京都大学新聞社/Kyoto University Press](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/fff4e54154c4755830a4be6abfe83431ae1b8af0/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fwww.kyoto-up.org%2Fwp-content%2Fuploads%2F2023%2F07%2Ftwitter_ogp.jpg)