それは砂場で、友だちがひとりふたりと去ってゆく夕方のある時間になった砂場で、それじゃあと、私も手から砂を払い、服から砂を払ったのだ。自分の場所があって、そこを思い出す一日の終わりがあって、そういう「一日の終り」が、人生には何度か訪れる。 私の場所ではなく、だれの場所でもない場所には<関係>だけがあって、そこでは、やってこなかった友だちとも結ばれていて、ここに来ていっしょに遊びたいと思って窓から遠くこちらを見ている友だちとも、砂場に来るたびに結ばれていた。 去ることが友だちを作り、見送ることが友だちを作る。つまり、別れることだけが友愛を証明するのだが、そのとき友愛の名によって何かを与えあう可能性はとざされてしまっている。今度は私が窓の向こうから、昨日までここで遊んでいた私自身を、昨日は遠すぎる、待てば待つほど遠ざかる、そういう遠さから、見る番なのだ。 @shasei氏、@gumin氏と立て続