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ブックマーク / freezing.blog62.fc2.com (7)

  • 坂のある非風景 twitterを去りました

    それは砂場で、友だちがひとりふたりと去ってゆく夕方のある時間になった砂場で、それじゃあと、私も手から砂を払い、服から砂を払ったのだ。自分の場所があって、そこを思い出す一日の終わりがあって、そういう「一日の終り」が、人生には何度か訪れる。 私の場所ではなく、だれの場所でもない場所には<関係>だけがあって、そこでは、やってこなかった友だちとも結ばれていて、ここに来ていっしょに遊びたいと思って窓から遠くこちらを見ている友だちとも、砂場に来るたびに結ばれていた。 去ることが友だちを作り、見送ることが友だちを作る。つまり、別れることだけが友愛を証明するのだが、そのとき友愛の名によって何かを与えあう可能性はとざされてしまっている。今度は私が窓の向こうから、昨日までここで遊んでいた私自身を、昨日は遠すぎる、待てば待つほど遠ざかる、そういう遠さから、見る番なのだ。 @shasei氏、@gumin氏と立て続

    hatayasan
    hatayasan 2008/09/07
    「純粋過ぎる<関係>のもたらす、狭く、小さな物語」ブログを閉鎖するときより、きっともっと閉じた感覚なんだろうね。
  • 坂のある非風景 <体験済みの未知>として振り返ること

    「きりんまつり」のポスターによれば、「スペシルゲーム」があり、おかしも「もらへる」。たしかにこのポスターはイベント内容を告げている。しかしこの写真として撮影されたポスターが告げているのは、こういった楽しいこと、大切なこと、それがどれほど重要なことだったか、もう大人であるあなたたちには思い出すことができないだろうという問いかけだった。けっして思い出すことができないのは些細な出来事ではない。「ほんとうに楽しかったこと」なのだ。 それは価値を与えられず、意味に変えられることもなく、だから体験とならず、まるでただ車窓から眺める風景のように通過してきた大切なものだった。そしてその価値は、けっして価値を与えられないというところにある。失われるがゆえに無意味とそっくりな意味を持つだけだった。 「ほんとうに楽しかったこと」はどれほどつまらない、たいしたことのない些細なことだったか。それを何日も前から待ち望

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    hatayasan 2008/01/24
    「それは価値を与えられず、意味に変えられることもなく、だから体験とならず、まるでただ車窓から眺める風景のように通過してきた大切なもの…そしてその価値は、けっして価値を与えられないというところにある。」
  • 坂のある非風景 : 出会うこと別れること

    いつ出会うのか。すべての出会いは再会だと何度も書いてきたが、ではいつ再会が果たされるのか。まるで出会った瞬間からずっと好きだったように、ある時突然好きになる、そういった好きになり方があるのだと、どこかにブランショが書いていたが、それによれば、出会うのは、好きになった瞬間以前のいつかである。それはそこで書き変えられてしまった過去のなかに不意に浮かび上がる瞬間であり、好きにならない限りけっして出会いだと気づくこともできない、すでに通り過ぎてしまった瞬間である。 ■わたし、あなたのこと好きになってもいいですか?「Ohnoblog 2」 好きであることはひとつの権利として登場するとサルトルが言っている。告白は、対象にその権利を通告することだとしたらどうだろう。きみを好きなのだから、きみは悩みをぼくに相談するべきだ。 「わたし、あなたのこと好きになってもいいですか?」という問いには、あなたのことを好

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    hatayasan 2008/01/16
    「決定権を相手に委譲しながら、その決定権をコントロールしようとするこの傲慢さを支えるもの、それが「好きであることの権利」である。」
  • 坂のある非風景 泡沫のように生滅せよ

    小学4年生の子どもが作文の問題をしていて、ただ、誰かになにか言われてうれしかったことを書けばいい、そういう他愛ないものだったが、子どもは、悪口を言われてくやしかったことは何度もあるが、なにか言われてうれしかったことは一度もないと言って、そこで止まってしまった。 この設問は「物語」の作成だった。きわめてイデオロギー的な、つまり合社会的な文脈で、生活の中からむりやりに「よい話」を作り出させようとする意図がぷんぷんと匂った。誰にだって「うれしかった」ことくらいあるだろう、そういう常識と呼ばれる物語の強制である。 わたしたちは誰でも、めいめい日常のあいだに物語を語り、聴き耳をたて、ひそかにじぶんでも物語を作りながら生活している。それぞれが物語にかこまれ、物語をのこし、物語をべ物みたいに呑みこんで、日々を繰返す。だが不思議なことに、この日常世界には物語めいたことが少なすぎるとおもっている。生活の繰

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    hatayasan 2007/12/22
    「物語の本質は、作品化されることにあるのではなく、一瞬語られて、二度と思い出すことのできない消失の運命につき従う、そこにこそあるのではないだろうか。」
  • 坂のある非風景 事物そのものの意味へ

    言葉の意味ではなく、事物そのものの意味へと向かう運動が詩だというとき、それは反神話的な言語となる。 コンビナートの夜景についての詩を書いた。「夜景」。夜景はほとんど人工的な光がつくりだす。夜景は人間が作った風景で、それは都市にのみあふれる光と影のオブジェだった。その詩に関して、「花畑よりもうつくしくて、やすらぎます。ひとりで見る夜景が好きで、そしてその時間はかなしい。」といった感想をもらった。 花畑といっても自然の風景ばかりではないだろうが、そこに反射するような幸福感よりも、そのひとは冷たい鋼鉄の風景に反射する自らの孤独感を選ぶ。そのひとは都市の孤独の中にあって、そこから逃れたいのではなく、それを実感し、それを自分の中にあるものとして取り戻し、そこにとどまりたいと考える。自分の中心をかなしみによって埋めながら、自分のつらさそのものによって癒されようとする。 そしてその「かなしみ」によって、

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    hatayasan 2007/12/10
    「孤独感を実感し、それを自分の中にあるものとして取り戻し、そこにとどまりたいと考える。…そしてその「かなしみ」によって、だれかと出会い、結ばれたいのだ。」あるがままを受け入れてくれる人を求める姿?
  • 坂のある非風景 理解しないことによる理解へ

    僕はただ単純に常識から考えるのです。つまり、他人の苦痛が、どれだけわかるかということ。他人の苦痛がわからないから、医者や看護婦は的確な処理ができる。他人の苦痛は絶対にわからないから、家庭生活も可能なのでしょう。 吉隆明との対談で江藤淳が語っているのは、痛みを理解することではなく、病を理解することがその痛みを取り除く、という法則といってもいいような事実である。医者は患者の痛みを理解しない、だから手術も平然とできる。それは共感なき理解、<理解しないことによる理解>と呼べるものだ。あるひとが苦痛を訴え凭れかかってきたとき、共感的理解によって共に倒れるか、共感なき理解によって支えとなるかといったふたつの愛の分かれ道がそこにある。これを小説と批評の対立と見てもいい。あるいは第三項、共感なき理解によって共に倒れるか。それだとあまりに太宰的か。 「はしごたん騒動」の中で大野さんの記事を読んだ。「彼女に

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    hatayasan 2007/12/06
    「読者は、ある意味では当事者たちよりも出来事の近くにいて、反省によって次々に出来事を出現させ、その価値を打ち立ててしまう。それが公開された書かれたものが負う運命である。」
  • 坂のある非風景 進化を準備する痛み

    書くことはピッチングに似ている。(略) 対して読者というのはバッターだろう。蓋し、インターネットには優れたバッターが少ない。まるでバッティングセンターで軽く汗を流すようにぶんぶん振り回しているその朗らかさに時折嫌気がさすことがある。 書き方が無限にあるように読み方も無限にあるのに、読み方を学ぶのはとてもむずかしい。緻密で厳密な解釈学的読解の反対側には飛ばし読みがあるといった一次元上に、すべては美しく配置されてしまって、あとは字面だけ読む(リテラルな読み)か、アレゴリーとして、メタフォリカルに読むか、行間をどの程度深く読むかといった違いしか残っていない。この野球の比喩はよくできていると思う。投手には七色の変化球があっても、バッターには一種類の打ち方しかないということである。あ、バントもあるか。 揉め事は全部この「読み」の浅薄さが作り出しているだけだし、揉め事とは無関係な記事もまた同じ「読み」

    hatayasan
    hatayasan 2007/11/18
    「書かれたものによって交わることは、眼をみること、手を取ることをはるかに凌駕する親密な出会いかもしれないのだ。」文字だけで交流できるWebだとリアルより純度が高い"人間関係"が生まれうる、といえるのか。
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