私がはじめて柄谷行人に出会ったのは一九八九年の暮れごろだった。昭和天皇が逝き、天安門事件があり、そしてベルリンの壁が崩れたその年、しばらく休刊していた雑誌『情況』を再刊する動きがあり、私は恩師廣松渉氏の強い要請で、雑誌立ち上げ数号分の企画を手伝うことになった。 雑誌の開放化をめざした私がどうしても駆り出したかったひとりが柄谷行人氏である。さっそく彼とは旧知の間柄にあった当時の編集長古賀暹氏を介してインタヴューを申し込み、聞き手を私が務めることになった。場所は雑誌事務所があった東中野の場違いともいうべきけばけばしい結婚式場の別室を借りておこなわれた。厳しい予算のなか、これは「破格」の待遇だったことになる。だが、正直いって、そのとき私が違和感を覚えたのは、その場違いな結婚式場以上に、柄谷氏本人であった。 インタヴューの間、ネームヴァリューとは裏腹にシャイな彼はほとんどこちらの目を見ることなく、