われわれは、マックス・ヴェーバーのあの有名な研究をもとに、プロテスタントの、とりわけ予定説を信ずるプロテスタントの、時間をめぐる視点の構成が、資本主義の下にある主体が、たとえば投資するときの態度と同じ形式になっている、ということを確認してきた。とはいえ、プロテスタンティズムのエートスが、資本主義の精神に直結するわけではない。プロテスタントの時間は、「最後の審判」という、絶対的に一回起的な出来事、世界の終焉そのものを含意する出来事との関係で構成される。逆に、資本主義の時間は、絶対に終わらない時間、無限の時間でなくてはならない。前者から後者への転換は、どのように生ずるのか。 この問いに対処する前に、次のことを確認しておこう。もしヴェーバーの説が正しいのだとすれば――われわれはそのような見通しをもって考察しているし、ここまでの議論はそれを裏付けつつあるわけだが――資本主義は、ヘーゲルが言うところ