ブックマーク / d.hatena.ne.jp/ced (15)

  • 雑記帳 - セキュリティ産業は本当に必要なのか?

    先週ロンドンで開催されたInfosecurity Europe 2007で、『セキュリティはなぜやぶられたのか』の著者であるBruce Schneierがセキュリティ産業の必要性について語った。CNET英語記事では表題が"Schneier questions need for security industry"となっているが、翻訳されたCNET Japanの記事では「「消費者は安全性に欠ける製品を受け入れるべきでない」--B・シュナイアー氏が講演」と表題が変更されているため、この内容が日国内のブロガーにはあまり注目されなかったのかもしれない。 が、海外では「セキュリティ産業は現状では必要に決まっているじゃないか」などと、この話を巡り議論が巻き起こり*1、Bruce Schneier自身がWiredでこの件について自ら語ることとなった。その記事が、Wiredに5月3日に掲載された"Do

  • ロールズの正義論 - 雑記帳

    ロールズの正義論に関する簡単なまとめ。学生時代に書いたものだから、内容が間違ってるかもしれないけどとりあえずエントリを作成。底は法哲学 (有斐閣アルマ)のp10-21およびp116-176。 ロールズの正義論はそれまでの正義論議と一線を画していた。1970年代初頭まで、社会科学における価値の議論は、倫理的概念の分析や価値判断の正当化の構造の追及といったメタ倫理学と、価値相対主義の台頭により、そもそも社会科学が実質的な価値判断を行なえるのかという疑問があった。社会科学が真偽を問えるのはあくまで経験的なものと論理的なものに限られており、正義のような社会的価値を社会科学の学問の下で語ることはできない、というのが当時の趨勢だった。 ロールズの正義論は、社会契約説を元に、自由で平等な道徳的人格が自分たちの社会の基構造を規定する根ルールを合意の上で選択する、という建設的ビジョンを、さまざまな理論

  • 日本人の法意識 第1章及び第2章 - 雑記帳

    人の法や法律に対する意識を考える上で欠かすことのできない書籍。 印象に残った部分のメモ。2003年当時のメモだから、今とは考え方が違っていてそれはそれで面白い。 強調は引用者による。 言うまでもなく、明治憲法の法典編纂事業は、まず第一次には、安政の開国条約において日が列強に対して承認した屈辱的な治外法権の制度を撤廃することを、列強に承認させるための政治上の手段であった。…… このような歴史的背景の中で作られた諸法典の大部分は、その基的な用語・観念・論理・思想において、はなはだ西洋的であった(もちろん、民法の「家族制度」の規定のように、西ヨーロッパの近代諸法典にない封建的家族の制度を定めたものもあったのだが)。このことをもう少し具体的に言うと、こうである。すなわち、これらの法典が西洋的なものとなったのは、当時の日の国民生活の大部分において、法律を西洋的なものにするような現実的な或い

  • 引用・編集・オリジナリティ - 雑記帳

    季刊・とコンピュータ (第2期13(2004秋号))に掲載されている小熊英二の文章は、オリジナリティや引用について考える上で重要なものだと思ったのでメモ。 ある作家と対談したときに述べたことだが、私は小説を書こうと思ったことがない。作家や詩人とは、世界に対して根的な違和をつきつけるような、存在感のある言葉を自分で創れる人なのだと思う。私は自分ではそういう言葉は創れないので、過去の言葉の集積のなかから、現代に生きる人間にとって衝撃力のありそうな言葉を集めて編集することによってをつくる。いわば、「言葉の高み」に上昇するにあたって、作家や詩人は自分自身にジャンプ力のある人だから自分で跳ねればよいのだが、私はジャンプ力がないので、石ころや木片を集めて足場にしているのである。 そのような引用に満ちたを、どのような方法で執筆(ないし編集)するか。もっとも理想的な場合には、「ここであの引用を使い

    hidedayo
    hidedayo 2007/01/08
    人類の歴史的共有財産である言葉を、うまく配列してよい作品にまとめたいという気持ちのほうが先にたつ。
  • ギートステイトに足りないもの - 雑記帳

    東浩紀氏のギートステイトについては、8月のコミケでハンドブックを購入してその内容についていろいろと考えていたのだけど、どうも腑に落ちないところがある。 端的に言ってしまうと、ギートステイトの未来像の中では、世界観や設定こそ未来なのだろうけど(グーグルやアマゾンがまだ存在していることはとりあえず置いておくとして)、その中に住む人々の思考様式は今のままなのである。社会や環境、技術の在り方は容易に人の考え方を変える。それは表面的なものに過ぎないのかもしれないし、社会全体を根底から揺るがす深刻なものかもしれない。けれど、そのことがものの見方を今のそれとは全く違うものに変えてしまう可能性は十分にありうる。 たとえば写真。今、カメラと言ったら大抵の人は携帯電話に内蔵されているカメラを想像するだろう。だけれど、しばらく前、フィルムカメラが全盛期だったころは写真を撮ることそれ自体が貴重な「イベント」だった

  • ライティング スペース―電子テキスト時代のエクリチュール - 雑記帳

    id:bookscannerの記事には、紙媒体の書籍のアーカイブと、ネット上における電子的なアーカイブの違いについていろいろと書いてある。どうしても、図書館アーカイブ、というと、如何にして書籍を電子化(スキャン)して、それを電子媒体(磁気テープ、ハードディスク、CD-ROM、DVD-ROM、etc)に保存するのか、という「保管」の面に話題が集中してしまう。アーカイビングと著作権の問題についても、どうやって著作権者から許諾を得るか、といった問題ばかりが語られる。でも、電子化された図書館は、単に紙媒体の書籍を保管する図書館が、電子化(スキャン)された書籍を保管する図書館に変わる「だけ」、なのだろうか。そもそも、私達が前提としている図書館、書籍、出版の在り方それ自体が、電子化によって変わってしまうのではないか。 以前、NY TimesのScan This Book!という記事についてエントリを

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  • ナウシカ解読 - ユートピアの臨界 - 雑記帳

    かなり以前に、UNIX的なユートピアを創れないかという話があって、少し物語の設定を考えたことがあった*1。その時にユートピア論の構築の難しさについていろいろと知ることができたから、「風の谷のナウシカ」の原作全7巻を読み終わったときの衝撃は強烈だった。宮崎駿の描くユートピア論は、ユートピアを否定することでユートピア論足り得たというちょっと特殊な構造になっている。それを私は自分なりに「きれいな嘘のつき方」*2と表現してみたことがあったけれど、哲学的にこの物語をまとめたがあれば是非読みたいと考えていた。そして、この、『ナウシカ解読―ユートピアの臨界』を見つけた。著者は哲学や社会学の理論を用いて詳細にこの物語を解説している。手元に置いてあるでもあるので、印象に残った部分のみメモ。ナウシカの原作と共に何度か読み返したくなる。 近代的な意味での「正義」の立場は典型的には従来の「勧善懲悪」の子供

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  • A Politics of Intellectual Property: Environmentalism for the Net? - 雑記帳

    James BoyleのA Politics of Intellectual Property: Environmentalism for the Net?はDuke Law Journalの1997年、Vol.47:87、p87-に収録されており、WEB上でも読むことが可能。 このエッセイの簡単なまとめ:環境運動がそうであるように、著作権問題に関しても政治経済学的なアプローチが必要。だから、このエッセイでは環境運動の経緯を元に、著作権問題でも必要になるであろうアプローチの方法について論じている。またスティグリッツらの情報経済学にも言及し、現在の新古典派経済学の自由主義的アプローチでは著作権問題は解決できないと指摘。 環境保護運動が「環境問題」を可視化したように、「著作権問題」も可視化される必要がある。 Yet, right now, we have no politics of inte

  • 江戸時代 権利意識 公共性 - 雑記帳

    これは2003年7月に作成したレポート。トンデモな感じが否めないけどとりあえず公開。 これまではあまり重要視されることのなかった著作権法における私的複製行為が、インターネットの登場により私的複製の範囲を容易に越えてしまい、複製行為が違反性を帯びてくるようになった。例えば音楽業界ではこの趨勢に対してコピープロテクト・CDを採用し、コンピュータ上でCDの音声データをMP3ファイル化できないよう措置を施すようになっている。このように、これまでは容易に複製が可能であったメディアが技術的制約によって複製不可能となる事態が今後益々顕在化してくると考えられる*1。 上記のようなインターネット上での私的複製行為の増加は、一方で日人一般の著作権に対する認識の低さを示しているとも言える。著作権に関する権利意識が欠如しているため、他の人が著作権を持つ作品を躊躇無く複製してしまうのは著作権者の権利を侵害している

  • 銃・病原菌・鉄(下巻)第13章:発明は必要の母である - 雑記帳

    こので印象に残ったのはこの第13章。「発明とは何か」を考え直すきっかけを与えてくれるこの章は読んでおく価値がある。 まず、発明はどのようになされるかについて考えてみよう。これに対する一般的な答えは、「必要は発明の母」という格言で表現される。何らかの必要があるときに発明が生まれるという考え方である。既存の技術の限界が社会的に広く認識されると、新しい技術がもたらすであろう富や名声にかられて、誰かがその解決策を見つけだそうとする。その結果、既存の技術よりも優れたものが発明され、社会的価値観に合致し、他の技術とも両立するものでれば、それが社会によって取り入れられる、という考え方である。 …… ……ところが実際の発明の多くは、人間の好奇心の産物であって、何か特定のものを作りだそうとして生みだされたわけではない。発明をどのように応用するかは、発明がなされたあとに考えだされている。また、一般大衆が発明

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  • 国際摩擦と法 - 羅針盤なき日本 - 雑記帳

    hidedayo
    hidedayo 2006/07/11
    石黒先生の本
  • インターネット空間の社会学 - 情報ネットワーク社会と公共圏 - 雑記帳

    いわゆる電子民主主義論をハーバーマスの公共圏の理論を元に考察している。この類のはポストモダン的で地に足のついていないものが多いだけに、きちんとした理論的枠組みを元に研究を行なっているこのの存在は貴重。今日のインターネット関連の議論のようなトンデモ論ではなく、インターネット上に公共圏が存在し得るかを様々な角度から検証している。しかし、これはあくまでこれまでの議論の総括であって、今後の更なる研究が必要とされているのだろう。ただ、微妙だと思ったのは、著者の実証例が果して日のみに通用するものなのか、より普遍的なものなのかが、このの中では区別されておらず、その地域的特異性が殆ど考慮されていない点。公共圏の議論に関しても、他の国(欧米)と日では文化的な立脚点が全く違うのだから、公共圏の在り方についても欧米とは違ったやり方で検証する必要があるように思う。 日では何故か欧米での公共性の議論は

    インターネット空間の社会学 - 情報ネットワーク社会と公共圏 - 雑記帳
  • ことば - 雑記帳

    ことばはどのように理解されるのか。北田暁大のハーバーマスとルーマンのコミュニケーション確立モデルの検証を参考にちょっと考えてみた。 ……言語行為論(あるいはハーバーマス)や社会学的なメッセージ伝達モデルが前提とするような、《意図(メッセージ)→理解》図式は根において転倒しているといわなくてはならない。精確なコミュニケーションの図式は、実に奇妙ではあるが、意図の所有者としての「送り手」を図式から削除し、世界の観察者としての受け手/聞き手のみが「意図的行為」の「理解」を提示しあう《理解→理解》図式とでも呼ぶべきものである。コミュニケーション当事者は、互換可能な立場として「話し手」「聞き手」に割り当てられるものではなく、基的には相手の意図的行為を観察=記述する観察者として捉えられなくてはならない。(責任と正義―リベラリズムの居場所 p21) ハーバーマスの《意図(メッセージ)→理解》図式の場

    hidedayo
    hidedayo 2006/06/25
    ことばはどのように理解されるのか。北田暁大のハーバーマスとルーマンのコミュニケーション確立モデルの検証を参考にちょっと考えてみた。
  • 東南アジアにおける政党政治と民主化・ガバナンスの課題 - 雑記帳

    序*1 第二次世界大戦後の東南アジアの政治を語る上で欠かせないのが、「開発体制」と「独裁政権」である。この二つをベースとした権威主義体制が、東南アジア各国の驚異的な経済的発展を可能とした。政治的な自由を犠牲にしつつ、開発を優先し経済発展に努めたのである。「権威主義開発体制の正当性は、経済発展を続けるために権力と資を集中させたほうが効率的*2」という考えが元にあったのだが、1997年7月にタイで起こったバーツ暴落に起因するアジア金融危機により、これまで右肩上がりの成長を続けてきた東南アジア諸国にも翳りが見え始めてきている。このことが、これまで正当化されてきた東南アジアの権威主義体制の基盤を揺るがす事態となっている。「成長イデオロギーの国民的共有*3」が不可能となったとき、それが、東南アジア諸国の民主化及びガバナンスに与える影響は大きいと予測される。この事態に直面している現在、東南アジア諸国

  • 自己コントロールの檻 - 感情マネジメント社会の現実 - 雑記帳

    「人格崇拝」と「マクドナルド化」を中心に現代社会を論じた。合理的手法の非合理的帰結。 はじめに 現在の社会的状況を支える中心的規範として、けっして自他の人格を傷つけてはならないという「人格崇拝」と、予定にしたがってものごとを効率的に進行させなければならないという「マクドナルド化」の二つの規範が存在する。 この二つの規範は社会の心理主義化によってより高度で厳格なものとなってきており、一方でなめらかでスムーズな人間関係を生み出すけれども、他方では息苦しくさせるような状況をも創出していると思われる。(p19) 第一章 心理主義化社会 筆者はまず、就職活動における「自己分析」をまず例に挙げ、社会の心理主義化に半ば強制的に巻き込まれていってしまう現状について説明している。巷に溢れる「自己分析」関連の書籍を読み、「自己分析」を研鑚することで、「“私”の選択の実現が他者による選択に依存し、その他者が心

    自己コントロールの檻 - 感情マネジメント社会の現実 - 雑記帳
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