ブックマーク / blog.goo.ne.jp/hituzinosanpo (82)

  • 天皇ゲームをもてあそび - hituziのブログ 無料体験コース

    たまたま『アエラ』の表紙をみたら「雅子妃「離婚説」の策謀-別れさせたがっているのは誰か」とある。へえ。そんなのあったんだ。さして興味はないので、内容は みなかった。検索してみたら、『フライデー』と『週刊新潮』にも「離婚説」の記事があるようだ。 わたしは不妊カップルの こどもだったりする。あきらめてたところに、ひとり うまれ、あとで わたしも うまれたそうだ。だからというのは おこがましいが、「こどもは まだか」という胸くそわるい圧力の いまいましさが、なんとなく わかる。あれこれ きいてきたからねえ。 くそかったるい天皇制という意味不明な「歴史」なんぞをせおわされた夫婦の重圧は はたして いかばかりか。その重圧というのは、「国民」が あたえてるわけなのだが。 かいならされてきたから、さほど文句もいえず がまんをすることになる。くだらない ひとらに かいならされてきたから、「女系天皇に反対」

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  • ことばのユニバーサルデザインの方向性 - hituziのブログ 無料体験コース

    ユニバーサルデザイン(普遍的設計 ←無理がある訳であっても、ゆるして)は、この社会には いろんな人が生活していることを大前提におく。白人で、若者で、男性で、異性愛者で、健常者で、中流階級以上で、マッチョで……なんていう、特定の人たちだけが生活しやすい社会設計を批判する。老人だろうが、コドモだろうが、妊婦だろうが、どんな身体的特徴をもっていようが関係なしに、だれも無力感をあじあわなくてすむ社会をめざすわけだ。 これは、ことばの表現様式の問題についても いえることだ。 たとえば、文字をかくこと=「筆でしたためる」っていう常識が一般化した社会では、字がかけない人が でてくる。まったく「かけない」ことはなくても、劣等感にさいなまれる人もでてくる。筆がきには、ある文化文化的素養)と肉体資(もってうまれた体)が条件として要求されるからだ。 というメディアにおいても、拡大図書をよむ人がいたり、

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  • 映画『綴り字のシーズン』 - hituziのブログ 無料体験コース

    めずらしいものが、ひとをばかにさせる。ひとを翻弄し、判断をにぶらせる。 「ひと」に主体をおこう。ひとは、しばしば、めずらしいものに「うばわれる」。なにを? こころといってもいいし、あたまといってもいい、意志でも、選択でも、気もちでもいい。 「めずらしいもの」。むつかしい ことばでは、「希少性」と いわれる。いや、ごていねいに「稀少性」という字が あてられたりもする。 『綴り字のシーズン』という映画をみた。予想どおり、ばかな映画だ。映画としては、よい作品だ。だが、この映画のなかで えがかれている光景というものは、ただの茶番劇である。 英語帝国主義のせいで、日で学校生活をおくるひとびとのほとんどは、どこかで英語を学習する経験をもつ。日語をまなぶ留学生でさえ大学の授業で英語が免除になるということはない。テストでは おおめにみてもらいながらも、ともかくも、英語をまなぶ経験をもつ。ほとんどのばあ

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    hituzinosanpo
    hituzinosanpo 2008/11/15
    "ちゃんと はなしをきいているのか。わかろうとしているのか。表面的な ことばじりの むこうにある、気もちをみようとしているか。それは、みえないものだからこそ、「みようとしているのか」が、とわれるときがある"
  • 色覚検査は、どこでする? - hituziのブログ 無料体験コース

    このまえ健康診断をうけた。色覚検査をするもんだから、ちょっと びっくり。検査しないで いいです、と いえばよかったかも。 高柳泰世(たかやなぎ・やすよ)『つくられた障害「色盲」』朝日文庫と村上元彦 (むらかみ・もとひこ)『どうしてものが見えるのか』岩波新書をよんでほしい。 ちなみに、この2冊とも、みあたらず…。どこにしまったんだか。 で、「色覚異常 - ウィキペディア」をみたんだが、なるほどと おもったことがある。 「呼び名について」をみると、「「色盲」こそが相応しい用語だとする意見もある」として、「「色盲」という言葉はある種の色が見えない(盲)という客観的な事実のみを表している。」とある。あー、いえてると納得しました。 色盲の いいかえ表現って しっくりこなかったんですよね。色弱はまだしも、色覚異常、色覚障害。色覚障害は、まあ いいとしても。ともかく、たとえば わたしは「視覚障害者」より

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  • 視点をひっくりかえす重要性(少数派について) - hituziのブログ 無料体験コース

    2006年に かいた論文に、「均質な文字社会という神話-識字率から読書権へ」というのがある。ここで識字率から読書権へというのは、どのような意味か。 たとえば日の識字率が97パーセントだとしよう。そして、のこり3パーセントが未達成であるから、「すべての人に文字を」というスローガンをとなえて、文字を普及することが理想的な社会をつくっていくうえで、重要なことだろうか。 わたしは、そうは おもえない。 なぜなら、どれだけ教育をひろめようと、文字をよめないひと、よめなくなるひとは存在しつづけるからである。 一方、読書権の普及率という視点にたってみると、そのパーセントは、かなり ひくいものになる。 拡大図書でなければが よめない弱視者や高齢者、あるいは脳性まひのひとに、どれほど拡大図書が提供されているのか。 パソコンが つかえず点字しか よめないひとに、どれほど点字でが提供されているのか。 なん

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  • 人工物としての自然 - hituziのブログ 無料体験コース

    自然概念ふたたび。 以前の議論は、「構築されつつあるものとしての「自然」」と「酸素の誕生から かんがえる「環境」」をみてください。 まず、ジュディス・バトラーの引用から議論をはじめたい。「ジェンダーが構築物だという主張は、ジェンダーが幻にすぎず、人工物にすぎないと述べて、それに「物」や「真正さ」を二元的に対立させることではない」。(『ジェンダー・トラブル』71ページ)なになには自然の産物ではなく、社会的構築物だと主張するのは、「手つかずの所与の自然」という概念を無批判に想定(肯定)するためではない。 自然物と人工物という対比は、どこまでも不毛なものである。それは、自然というものはどこにも存在せず、人工的につくられた概念であるにもかかわらず、お約束として、「自然というものが あることにしている」からである。それのみならず、みんなで そういうことにしているうちに、自然というものが、「たしかに

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  • 構築されつつあるものとしての「自然」 - hituziのブログ 無料体験コース

    「アプリオリに「自然」は存在するか」。 自然という名づけが言語によるものである以上、自然は人間(言語)によって構築されるものである。ガーゲンが指摘しているように、「何かは、単にそこにあ」るのだ(『あなたへの社会構成主義』328ページ)。それがなんであるかを言語化するプロセスにおいて、「それ」は言説の世界へとくみこまれていくのである。 人間界と自然界はアプリオリに存在するものではない。人間なくして自然はないのである。自然がまず事前に存在して、それからそこに人間の介入がくわえられるのではない。人間の みなし、フィルター、言語、介入、人為…表現はなんでもよい、それら人間の具体的な行為によってこそ、そのたびに事後的に「それ以前」として自然が構築されるのである。 つまり、はたらきかけ(人為)が事後的にそれ以前(自然)を構築するのであり、アプリオリに自然は存在しえない。自然はたえず構築されつつあるもの

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    hituzinosanpo
    hituzinosanpo 2008/10/23
    名作。
  • いまから映画『自虐の詩』をみようか、どうしようか。みることにしよう。 - hituziのブログ 無料体験コース

    感傷に ひたることなんてないでしょう。自分で えらんだのでしょ。そうしたかったのでしょ。あなたが そういうことにしたのよ。だって そうでしょう。なにをそんなに。 したをむいて、おちばをけってみたって、なによ それ。いいかげんにしてよ。 春が きたようで、まだ風は つめたいから。ひんやりと、心をひやすから。でも、ひやされながらも、あったかい気がするでしょう。あったかくなるでしょう。ちょっとくらいは、あったかいのが わかるでしょう。わかりなさいよ。感じとりなさいよ。 あなたは そういう人なの。その程度で、その程度だから、その程度でも、べつに かまやしないし、全然よくないのよ。おどけてみたって いっしょよ。ごまかせない。 うわべをとりつくろったって、なにが どうして どうなのよ。意味が わからないわ。 たとえば わたしが、そういったとして。 たとえば わたしが、そういわれたとして。 納得できるは

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  • ほんとのことは、うそをつく - hituziのブログ 無料体験コース

    すべてが、うらがえる。どんなものでも、ひっくりかえる。 ちょっと そこの あなた。「さみしい」って いってごらんなさい。どう、いってみた? かんがえてみた? で、どうなのよ。じっさいのところ。ほんとに そうだと感じる? それとも、そうでもないかなって おもう? どっちでも あるかな? べつに なんでもいいのよ。「最近つかれた」とか、「毎日が たのしい」とか、「なにかが ちがう」とか、どんなことでもいい。なにかを感じてみて、ことばにしてみて、ふりかえってみてくださいな。どれだけ ほんとのことであっても、しっくりこない部分も のこるはずよ。そうでも ないなって ところが あるはずなのよ。そこまででもないよとか、あるいは、さっき ごはん たべたら そうでもなくなったとか。 どんなに ほんとのことでも、「ほんとの意味で」そっくりそのまま「ほんとのこと」なんかじゃないのよ。なにをいっても、うそをふく

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  • 人間は、「なるもの」とか「であるもの」なんかじゃないんだ。するものなんだ。 - hituziのブログ 無料体験コース

    人間は、「なるもの」とか、「であるもの」なんかじゃないんだ。するものなんだ。 だから たまには人間をしないときが あったって いいし、ネコをやってみたって いいんだ。にゃああああああ。ぐーぐー。 きょうは、こういう人間をする。こんなときには、こんな人間をしてしまう。今度は、あんな人間をしてみよう。そんなかんじだ。 人間になるだって? まだ人間になれずにいる状態にいる だれかが いて、そのひとが人間になる条件をみたすことによって人間であると認定するのですか? 人間であるだって? ところでさ、植物人間ってのは、人間とは べつのカテゴリーとしての「植物人間」なの? それとも、「植物状態にある人間」ということなの? 宇宙人って いうけど、あれも なにをもって宇宙人は「ひと」だというの? その根拠となるのは、脳みそ? すがたかたち? 言語? 文明? 宇宙動物とはいわずに、宇宙人というのは、地球以外の

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  • 自己犠牲よりはエゴイズムを - hituziのブログ 無料体験コース

    『めぐりあう時間たち』という映画をみた(リンク先は公式サイト。注意:フラッシュと音楽あり)。 これを「ぼんやりとした不安」というのだろうか。くらい かげがさした かなしみ。そんな感情にとらわれたとき、ひとは なにかをみうしなう。問題なのは、みうしなったあとに、なにをみいだすのか、ということではないか。 映画全体についての感想は かかない。エゴイズムについて かきたい。ただ、ひとことで いえば すきな映画だ。 納得できない生活に けりをつけるのか、あるいは、納得できない気もちをおさえて、おしだまっていきていくのか。選択。えらぶ自由。「わたし」は自由であるのだ。 ここ数十年のうちに離婚率が たかまっているという。あるひとは、家庭の崩壊であり、ゆゆしきことだという。身勝手だという。のこされた配偶者が、こどもが、かわいそうだという。 自分のすべてをささげるほどに「いとおしい だれか」というものが、

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  • 「こどもあつかい」について - hituziのブログ 無料体験コース

    「こどもあつかいするな」。 こどもあつかいは、わるいことだとされています。たとえば、おとなの身体障害者にたいして、こどもあつかい。20代後半のひとにたいして、50すぎのひとが こどもあつかい。「ちゃん」で よんでみたり。 けれども、こどもと おとなの平等という観点にたってみると、なぜに「こどもあつかい」が よくないことだと いわれるのか、すこし不可解になってきます。なんなんでしょうか。 おとなは こどもではない、ちがう、ことなっている。なのに、とりちがえている。だから、いけない。イヌをネコと よんではいけない。そういうことでは ないように感じるのです。 おとなと こどものあいだに、はっきりと、序列といいますか、上下関係が成立している。それは こどもが つくったものではない。「こどもあつかいするな!」という、おとなの側が つくりだした序列だ。 でだな、「こどもあつかいされている」と どのよう

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  • 年齢差別からの解放? - hituziのブログ 無料体験コース

    上下関係による支配と服従。わたしたちは、不平等な社会をいきている。 年齢差別、年功序列、パターナリズム。「コドモはオトナのいうことをきいてれば いいのよ」。なぜ? その根拠は? 競争だの、せりあいだの、あんまり すきではないが、だれしも だれかと「勝負する」局面に たたされることがある。そこで、年齢という、固定的なもの、個々人が どうあがいても どうにもならないことを武器にされるのは、どうも苦手だ。年齢差別に「いわれある」「ごもっとも」な面も あるだろうか。 それまで いきてきたということ。なるほど、年齢をかさねるということも、努力の結晶であって、評価されるべきことではある。しかしながら、「あんたは年下なんだから」というような話は、むしろ「なにをかんがえて年齢をかさねてきたんですか?」と内心おもってしまう。分別のたりない「コドモジミタ」発想に違和感をおぼえるのだ。 コドモジミタ? はい、「

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  • 「親があっても、子は育つ」 - hituziのブログ 無料体験コース

    坂口安吾(さかぐち・あんご)は、「親があっても、子は育つ」といった。どういうことか。 太宰治(だざい・おさむ)の自殺を批判した「不良少年とキリスト」から引用しよう。親がなくとも、子が育つ。ウソです。 親があっても、子が育つんだ。親なんて、バカな奴が、人間づらして、親づらして、腹がふくれて、にわかに慌てて、親らしくなりやがったできそこないが、動物とも人間ともつかない変テコリンな憐れみをかけて、陰にこもって子供を育てやがる。親がなきゃ、子供は、もっと、立派に育つよ。なんという ぼろくそな いいようだろうか。わたしは、この一節を引用したことの罪により、いろんなひとからイジメられそうである。 安吾は、死ぬまぎわに こどもが できて、たいそう よろこび、親ばかっぷりを発揮していたようだ。 「戦争論」というエッセイでは、安吾は家族制度について、つぎのように批判している。両親とその子供によってつくられて

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  • 完璧な親って いるのか - hituziのブログ 無料体験コース

    ちくま新書は なかなか いい仕事してると おもう。 こないだも『子どもが減って何が悪いか!』(赤川学/あかがわ・まなぶ、2004年、筑摩書房)と『「おろかもの」の正義論』(小林和之/こばやし・かずゆき、2004年、筑摩書房)をかってきた。まだ よんでないけど、赤川さんのの あとがきに ちょっと感想。まず引用する。仮に子どもがどんな重度の障害をもって産まれてきたとしても、愛情をもって育てる覚悟をもてた男女だけが、子どもを産めばよいのだ。そうした選択の結果、産まれる子どもの数が少なくなったとしても、それはそれで仕方ないことだ。(217ページ)はい、正論です。ここで「重度の障害」の話は重要ではない。少子化が どうのとか、わたしは まったく興味がないので、赤川さんの議論には共感できる。それは いい。しかしだ。うえに引用した主張は、「責任感をもって、完璧な親になる準備をととのえてから親になれ」と、

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  • パターナリズムが どうしたってんだ - hituziのブログ 無料体験コース

    いいですか。「ふみこむってことは、まじわるってことは、意図せぬ暴力をともなうものなの」(「悪魔の代理人」)。 支援すること、ケアすること、そこにはパターナリズムがあるだ、権力関係になっているだなんだのって、なにが いいたいのかしら。 あたりまえじゃないのよ、そんなこと。 そんなの、ふみこむ一歩手前で、たちすくんでいたら、みえてくるはなしよ。 でなに? パターナリズムは いけないって いうわけ? いいよ、いけないってことにしましょう。ええ。パターナリズムは いけません。 で、どうするの? パターナリズムってのは、父親的に、おしえさとすようなことをいうよね。父親的に、人の意欲的な行動にたいして、あぶないからだとか、こっちのほうが たのしいよって邪魔をすることをいうよね。 で? いらんことをするなと。はい。いいよ。 で? いらんことをするなで、すべては解消されるの? なやみは そこで なくなる

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    hituzinosanpo
    hituzinosanpo 2008/10/20
    "パターナリズム? そうね。たまには、たちどまってみるのも いいわ。けど、かんがえてみて、もう一度、ふみこまなくっちゃあ いけないの。"、"自分のだした こたえに うらぎられ、ぬりかえし、また くつがえす。"
  • 人に期待するのも ほどほどに - hituziのブログ 無料体験コース

    「うらぎられた」というのは、どういうことだろう。「あれだけ信じていたのに、わたしのこと なんにも わかってなかったのね」。などなど。 あるいは、「この程度じゃ満足できない」というのは、どういうことだろう。具体的に いえば、「論理が とおっていない」「矛盾だらけだ」「あれやこれやの議論をふまえていない」とか、そういう批判ね。 こういう気もちというのは、他人にたいする期待の度あいが ひくければ、でてこない反応だろうと おもう。「人間そんなもんだ」と わりきっておくほうが、人生たのしいんじゃないかしら。期待が適度に ひくければ、逆にその人や その人の作品、文章などに魅力をみいだすことが できる。なぜなら、最初から おおくをもとめては いないからだ。どんなものにも魅力をみいだせる人というのは、つまりは完璧主義者じゃないわけよね。それは、ある意味では、どこかに つめたさをもっているということ。 期待

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    hituzinosanpo
    hituzinosanpo 2008/10/20
    "期待が適度に ひくければ、逆にその人や その人の作品、文章などに魅力をみいだすことが できる。なぜなら、最初から おおくをもとめては いないからだ。"
  • 「ほんとうの わたし」 - hituziのブログ 無料体験コース

    よくあるはなしだけど、まえから かきたかった。 「あなたって こうですね」といわれると、「そんなんじゃないのに」と、いわれた人は感じる。だけど、「あなたは こうですね」という発言は、「わたしには できないな」という意味であったりするわけで、それは自分をかたっている。わたしは こうだとか、あなたは こうですねというのは、結局、比較をしてのことなので、人は そうでないと感じようとも、そうであるとも いえるし、そうでないとも いえる。そのひとの どの面をみて、どのように比較しているかによって かわってくる。 だれしも いろんな面をもっているもので、ある面をみせていたら、みせていない面は指摘されない。それで、「ほんとは そうじゃないのに」と感じたりもする。けど、その「ほんと」なんてのは、ほかの だれかには みせていて、そのひとには また別の面をみせていなかったりするものだ。まるい地球は いつも

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    hituzinosanpo
    hituzinosanpo 2008/10/20
    これ基本。 "まるい地球は いつも すべての面が太陽のひかりをあびているわけではない。スポットライトがあたれば、どこかは影に かくれるのだ。それを、「ほんとうの地球は」などと いっても しかたがない。"
  • 身勝手な期待と想定 - hituziのブログ 無料体験コース

    すばらしいを紹介しよう。 わたしが最近かきちらしている記事をすこしでも おもしろいと感じていただけた かたは、飯沼和三(いいぬま・かずそう)『ダウン症は病気じゃない-正しい理解と保育・療育のために』大月書店をよんでほしい。3章の「ダウン症の知的能力とことば」が すばらしい。 ところで。 これは、杉山登志郎(すぎやま・としろう)さんの『発達障害の豊かな世界』をよみなおしたときから感じていることだが、「自閉症へのまなざし」の再検討は必要だし、重要な作業だが、「ダウン症へのまなざし」もまた重要な課題であるということ。 また、「ダウン症へのまなざし」を再検討するうちに、「自閉症論のオリエンタリズム的性格」が あきらかになるのではないかという気がしている。もちろん、わたしの文章においてもだ。そのへんをかんがえるうえで、村瀬学(むらせ・まなぶ)『自閉症-これまでの見解に異議あり!』ちくま新書と最近に

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    hituzinosanpo
    hituzinosanpo 2008/10/20
    いいこと かいてる。すばらしい。
  • 自分のコミュニケーションを観察する - hituziのブログ 無料体験コース

    「コミュニケーションに障害はありえない」がはてなブックマークで ちょっと いい評価をもらったので続編というか、反省文をかく。仕事での反省文。いまの職場での反省じゃなくて、そのまえの高校でのはなし。高校で おしえたのは3ヶ月だったけど、それでも いろいろ感じるところは あったのでした。 反省文という意味では、「自閉者と自分勝手なコミュニケーション」に ちかいかも。ご期待くだされ。 それにしても、「自分勝手は おたがいさま」ということが わかってしまうと、ふとしたことで、だれかの一方的な態度が気になって、むかついたり、納得できなかったりしてしまう。ということはですよ!!!!! 「あのひとは勝手だ」。 もう、こんな ことばは いえないですよ! だってね、勝手だと おもうのは、勝手にも こういうときは こう反応すべきだっていう想定を、勝手に自分のなかに つくりあげてしまっているからでしょう?こう

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