ブックマーク / blog.goo.ne.jp/hituzinosanpo (82)

  • 夜間中学の魅力 - hituziのブログ 無料体験コース

    『夜間中学があります!』というブックレットがある(松崎運之介=まつざき・うんのすけ、かもがわ出版)。印象的な話を引用する。人はいつ決心するかわからないですもんね……。四月の新学期に、一斉に新たに決心をして、同時に意欲を持ってスタートなんて、そんなバカな話はありませんよ。人はそれぞれ違うわけですからね。決心したときに来られた、そのときがいちばんいいときだと思ってますから、いつでも入学を許可しています。許可ってはね……なんか失礼な言い方ですけれど、とにかく入ってきてほしい。(21ページ)この話をよんでると、世間でいう学校が いかに異様なところか わかりますやね。だから、「夜間中学の魅力」じゃない。「普通学校」の異様さだ。 グーグル:「夜間中学」

    夜間中学の魅力 - hituziのブログ 無料体験コース
  • 才能って なんだ - hituziのブログ 無料体験コース

    「才能あるのね」。これって おかしくないか。 ジェームズ・フィン・ガーナーの『政治的に正しいおとぎ話』(1995年、DHC)って、すこぶる おもしろいアメリカで論争になった いわゆる「政治的正しさ(PC)」、つまりは「適切な表現をしよう運動」をおもしろおかしく おべんきょできるだと おもう。おとぎ話というのは、現代的な観点から みると あれやこれや差別的で固定観念の かまたりの内容だったりもする。それを「差別から自由な作品」に つくりかえる こころみをしたわけだ。もちろん、おふざけだけども、けっこう おおまじめなのが おもしろい。ほんとに「差別から自由」ってのが ありえるのか どーかは、よんでみての おたのしみ。 その続編『政治的にもっと正しいおとぎ話』の「ウサギとカメ」から、ちょっと引用。カメとウサギは「競争の日」をめざして、熱心に練習を始めました。 無知な解説者たちは、ウサギの一

    才能って なんだ - hituziのブログ 無料体験コース
  • 紹介『権力構造としての〈人口問題〉』 - hituziのブログ 無料体験コース

    フランシス・ムア・ラッペ/レイチェル・シュアマン著。副題は「女と男のエンパワーメントのために」。新曜社。 ざっと よんだ。原著は、1988, 1990年となっているので そんなに あたらしいデータではないのだけど、ともかく、しっておくべき現実だ。 まず、「民衆が十分にべられるかどうかを決定しているのは明らかに、単なる人口以外の多くの要因である」という点は、よくしられた事実だ(18ページ)。それは、スーザン・ジョージ『なぜ世界の半分が飢えるのか』朝日選書などにも かいてある。 ラッペとシュアマンは、出生率が たかい地域では、(1) 経済的な生活保障が こどもの収入に依存する、(2) 乳児の死亡率がたかい、(3) 女性の地位が ひくく、女性の意志で避妊することが困難であったり、宗教的な理由で避妊をさけている、(4) 女性が結婚以外の選択肢をもちわせていない、(5) 女性にとって、家庭の外での

    紹介『権力構造としての〈人口問題〉』 - hituziのブログ 無料体験コース
    hituzinosanpo
    hituzinosanpo 2013/10/19
    あらためて よみなおしたい。
  • 最近の読書/おわることはない - hituziのブログ 無料体験コース

    さむいですねー。 ◆やっぱりね不安というのは大事ですよ。不安てか、これで いいんだろうかという。もちろん、そればかりでは だめで、バランスが必要なのであるけれど。毎日の生活のこともそうだけど、社会問題を論じるときには自己検証が たえず必要だと おもう。スタート地点からいうと いつの間にか自分の立場にも ゆれであったり、変化が みられる。ときに初心にもどりつつも、だけど方針をきっちり かえていく気がまえが いりますね。目的はなんであり、なにが重要なのか。どこをめざしていて、そこに いたるために なにを活用するのか。手段と目的をはきちがえたら いけませんものね。 まー、あいまいに かいてるけど、だれしも自分で自分の問題に気づくというのは なかなか むずかしいもので、なにか刺激をうけたときに はっとさせられるものだ。だから摩擦をおそれないというか、ちゃんと まじわる意志を維持しないとね。ひとりで

    最近の読書/おわることはない - hituziのブログ 無料体験コース
    hituzinosanpo
    hituzinosanpo 2011/07/11
    内在的に、というか、なんというか。
  • 映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』 - hituziのブログ 無料体験コース

    『ダンサー・イン・ザ・ダーク』へー。こういう映画だったのか。べつに感動はない。衝撃もない。淡々とみた。←ふつーは ないたり、ひいたり、へこんだりするらしい。 主人公は こどもかと おもってた。ビョークって だれですか。名前しか しらないお。 「チェコスロバキア」からのアメリカ移民のセルマの かなしい おはなし。1960年代が舞台ということらしい。 こんなところで星条旗をうつしだすのね(笑)とか、監督はミュージカルすきじゃないんだろうなあなどと おもいながら みてた。ドキュメンタリー風の撮影のしかたは きらいじゃない。手ぶれの感じね。ビョークというひとの歌には あんまり感じるものはなかった。最後のは でも すてきでしたね。 主人公は かたくなで頭も わるく、仕事も あそび半分。ミュージカルと妄想がすき。目がほとんど みえていなくて、やがて失明する。遺伝性のものだから息子だけは手術して なおし

    映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』 - hituziのブログ 無料体験コース
  • 多文化主義というよりも… - hituziのブログ 無料体験コース

    『〈複数文化〉のために』をかるく よんで、多文化主義って なんだろうということをふと かんがえた。おまけに多文化主義の定義について人と はなしをしたので、とりあえずの かんがえをかいておく。 文化とみなされるだけでも、じゅうぶん社会的地位はあるのだろう。もちろん、それらが不当に しいたげられているのが社会の現実であるが、多文化主義という、ある種の理想をかかげる以上は、一般的には文化とさえ みなされないもの(生活といってもよし)をどのように つつみこむのかということになるのではないか。そうでなければ、すでに常識化したものが社会的権威をたもちつづけてしまって、「文化という抑圧」が生じてしまう。 一般に文化とよばれるものには、ある種の わかりやすさがある。しかし、ありふれた生活に ちかづけば ちかづくほど、「文化というほどのものではない」という印象が つよまってくる。もちろん、それを生活文化

    多文化主義というよりも… - hituziのブログ 無料体験コース
  • なにごとも なければ平和なのかって問題 - hituziのブログ 無料体験コース

    ことなかれ主義って いやだねえ。 なにも事件が おきなきゃ それで おっけーってのはですよ。ちょっと、そこの おまえ、だまってろってことになるじゃないですか。 がまんしなさいってことになるじゃないですか。文句をいうなとか、そういう はなしになるじゃないですか。 おさえつけてるよなあ。おさえつけられてるよなああああ。 韓国の自由主義者の左翼評論家のピョン・ヂョンスさんが『満場一致は無効だ』ってをだしてるんですよ。これが いいでね。 ピョンさんが いうに、「意見の一致が のぞましいものであるとされるかぎり、最小限の「コンセンサス」に到達することさえできないだろう」(7-8ページ)。うひゃ。逆説的だよね。満場一致は不可能なだけにとどまらない。たとえ それが可能であるとしても、それこそが…中略…もっとも危険なことである。それならば、のこる問題は、「だれもが同意できる不変の真理」ではない。究極的

    なにごとも なければ平和なのかって問題 - hituziのブログ 無料体験コース
  • コミュニケーションに障害はありえない - hituziのブログ

    どのようなかたちであれ、ひとと ひととが接するならば、それはコミュニケーションである。「無言による応答」もコミュニケーションのひとつの ありかたであるように、どのような接しかた、応答のしかたをするにせよ、「コミュニケーションできない」なんてことは ありえないのだ。 だれもがコミュニケーションしているし、その よしあしを論じることはできない。 だれかを人質にとって、「ちかよるな! こいつをころすぞ!」と いっているひとにたいして、どのように接したら よいのか。そんなものは、よいも わるいも、正解もない。結果が うまくいけば、よかった、とは いえる。だが、そんなのは いきあたりばったりの、どのようにも評価できる しろものでしかない。 わたしは、あるとき語学の講師になり初回の授業で「コミュニケーションはなんでもあり!」とプリントに かいて くばり、「おはようと いわれて、バカと いいかえすのも、

    コミュニケーションに障害はありえない - hituziのブログ
  • 「つながり、ゆさぶり、ひびきあう」 - hituziのブログ 無料体験コース

    人と議論をしていると つい失敗してしまうことがあるわけですが。 今年に はいってから、「つながり、ゆさぶり、ひびきあう」議論がしたいものだと かんがえるよーになりました。相手と わたしが どこかで つながっているのを確認しながら、なおかつ相手に ゆさぶりをかける。でも、自分だけをただしい位置において、相手だけをゆさぶるのではなくて、ひびきあうものにする。むずかしいことだけども、この姿勢を大事にしたい。 「そーだよね、ごもっとも、ごもっとも」。これでは つまらない。かといって、「なに いってるの、わけ わからない」。これも おもしろくない。議論というのは ことばと論理のゲームなんだと おもう。あえて変なことをいうのも おもしろいし、かんがえてもいないことをいってみるのも いい。たまに、「するための議論」だと いわれたりも するけども。議論をしながら相手の かんがえが確認できるのは もちろんだ

    「つながり、ゆさぶり、ひびきあう」 - hituziのブログ 無料体験コース
    hituzinosanpo
    hituzinosanpo 2009/10/25
    5年まえかー。わかいなー。
  • てさぐりで もがきながら - hituziのブログ 無料体験コース

    どうすれば生産的な議論ができるのだろう。どうすれば おたがいのためになる対話ができるのだろう。わからない。わからないからこそ もがきつづける。ときおり不安になったとしても、それで いい。 だれもが すっきりとした生活をおくってないのだから、すっきりとした主張というのは どこにも ありえない。単純にAとBとに分類できるほど、人間は単純じゃない。でも、ある程度は単純化も必要だ。それぞれの役まわりを演じることも必要だ。相手のはなしをあえて否定することも必要だ。でも、自分を中立な安全地帯におくことでは議論はすすまない。 おたがいが自分をさらけだし、なやんでいることをすべて うちあけるような対話であれば、そこには共感がうまれる。信頼がうまれる。安心がうまれる。そして なにか変化がうまれる。 なにも たしかなことはない。わからないことだらけだ。それでも いきていく。それでも かたりあっていく。もがきつ

    てさぐりで もがきながら - hituziのブログ 無料体験コース
    hituzinosanpo
    hituzinosanpo 2009/10/25
    いいはなしだ…(笑)。
  • 個人の問題ではないということ - hituziのブログ 無料体験コース

    確信が ゆらぐときにこそ、不安定ななかで なにかをつかまないと いけない。 こわだかに なにかを批判するのは、ある意味では楽だ。精神的にも興奮状態にあり、なにかを確信できているからだ。しかし、ふと われに かえったとき、ふと疑問をもったとき、心が しずまったとき、あるものに気づかされる。はたして、自分は正義だったのかと。ただしかったのかと。 社会が わるい、政治家が わるい。ごもっともだ。だけれども、わたしや あなた ひとりひとりは、一体なんなんだろう。全体のなかの一部には、一部としての役割があり、責任がある。だれひとりとして、外部には いないのだ。問題の内側にいる。象徴的なものだけを攻撃する前に、それが自分のすがたが投影されたものだということを、かみしめる必要がある。 「問題を個人的なものに還元するな」。しごく ごもっとも。しかし、個人的とされるものは、なべて社会的だ。社会の縮図なのだ。

    個人の問題ではないということ - hituziのブログ 無料体験コース
    hituzinosanpo
    hituzinosanpo 2009/10/25
    責任について 4年まえに かいたこと。なるほどなあ、わたし。
  • 対等に議論するということ - hituziのブログ 無料体験コース

    たまにはパターナリズムも必要なのかなぁと、そんなふうに感じるときがある。上の視点から、「おしえてあげますよ」という説明の仕方。あるいは、下から「おしえてください…」という態度。どちらも ありかなと。「おなじ目線」に たつだけが能では ないなと。 対等な関係を維持して議論をするというやりかたは、どうしても途中から無理が生じてしまう。ごくごく一部の人となら、ほんとの意味で対等で、なおかつ おたがいにとって有益な議論になるのだが、なかなか そんな状況には めぐりあえない。議論するときは、「なにかについて」話をするわけで、その話題についての知識や省察の量が対等であるということは ありえない。もちろん、知識のある人が概説をかたり、それをきいた相手が、「それは こうで、ああだね」というふうに考察をくわえるという議論の仕方もありうるし、そうしたカタチであれば対等な議論といえるだろう。けれども、たいがいの

    対等に議論するということ - hituziのブログ 無料体験コース
  • コミュニケーションに「限界がある」ということ - hituziのブログ 無料体験コース

    掲示板、チャット、ブログでのコミュニケーションについて。 「顔のみえない匿名によるコミュニケーションだから」…。限界がある。むずかしい。いきちがいが おこりやすい…。はい、そうですね。だけどもだ。「ちょっと限界がある」ってことに あまえてしまってる部分が けっこう あるんじゃないだろうか。だって、仕方がないじゃないか、みたいにね。 相手の意図や人物像が みえなくとも、その人は どこにでも いる ふつーの人なんだということをわすれてしまうならば、完全にレッテルをはり、攻撃したり、あざわらったりしてしまう。これは相手の問題なんじゃない。自分の問題だ。自分は、他人に どのように接するのかという自分のなかでのルールの問題なのだ。 問題は別に顔のみえないコミュニケーションに とどまるものではない。顔がみえたってだ、わかりあってなんか いないし、みえてくるものは すくない。それでも みえてくる部分をみ

    コミュニケーションに「限界がある」ということ - hituziのブログ 無料体験コース
  • ウェブで議論する - hituziのブログ 無料体験コース

    「ウェブに「他者」は現われるのか?」(kanjinaiさん、G★RDIASより) 私が道を歩いていたときに、私の前で倒れていたホームレスの人は、そのとき私にとって都合の悪い「他者」であった(これは私の事実体験であるということは前にも書いた)。私はその「他者」からの問いかけから逃げた(と私は思った)。私はこの生身の体でその人を助け起こしたり、救急車を呼ぶことはできた。が、しなかった。そのことが私をいままで追いかけてくるという意味でも、それは「他者」であったと思う。ここでいう「他者」と、ウェブの掲示板やブログでの粘着的なコメント屋さんは ちがっていて、粘着コメントさんを、kanjinaiさんは「他者」とは みなさないんだ、「そこにあるのは、粘着的な自己確認の応酬でしかない。」というはなし。 さらに勝手に要約すると、ウェブで議論するのは、なかなか むずかしいことで、そんなに期待していない。また、

    ウェブで議論する - hituziのブログ 無料体験コース
  • あいまいな「わたしたち」 - hituziのブログ 無料体験コース

    あいまいなのは、文脈に依存するからではありますが。ともかく。 わたしたちが「わたしたち」というとき、わたしたちは、だれにむけて はなしかけているのでしょうか。その「わたしたち」とは、だれのことをさし、また、だれのことは ささないのでしょうか。 自分の文章をよみかえして、あ、やっちゃったと感じたのですが、かいてしまったものは しかたがない。自閉者のコミュニケーションが自分勝手だと感じたとき、まさに、わたしたちは、そこに鏡に うつった自分のすがたを発見するときなのです。(「自閉者と自分勝手なコミュニケーション」より)わたしたちというのは、人類全体をさすこともあれば、一部をさすこともある。同時代をいきているひと全体の場合もあれば、歴史上のひと すべてをさすこともあるかもしれない。 だが、社会を論じ、差別や格差の解消を論じるようなときだけは、せめて、だれかを排除したかたちで「わたしたち」をかたらな

    あいまいな「わたしたち」 - hituziのブログ 無料体験コース
  • ことばと からだの多様性から、あたりまえ革命へ - hituziのブログ 無料体験コース

    どんなに自分をごまかして うつくしく みせようとも、がんばってみせようとも、ごまかしきれるものではありませんね。 自分に むすばれたゴムをふりきろうとしてみたけれど、やっぱりゴムの力が つよくて ばっちーん、みたいな。 ふりだしに もどる。 みのほどをしる。ところで。浜田寿美男(はまだ・すみお)『「私」をめぐる冒険-「私」が「私」であることが揺らぐ場所から』洋泉社から引用します。第二章 「自閉症という「私」の鏡」のフレーズです。私は、断念ということばは、とてもポジティブなものだと思っています。目の前に高すぎる不可視のハードルがあるときには、断念がなければ、相手を肯定したり、相手の居場所を認めたりすることができません。…中略…cure[治療、なおす-引用者注]を目指すことがそのまま相手を否定することにつながることがあるし、逆に、断念することが関係の回復に直結することもあるわけです。その意味で

    ことばと からだの多様性から、あたりまえ革命へ - hituziのブログ 無料体験コース
  • 自閉者と自分勝手なコミュニケーション - hituziのブログ 無料体験コース

    このあいだね、職場にきてた実習生3人が、めずらしいことに最終日に ぼろなきしてたんですよ。おお、めずらしいなあと。利用者さんをみて、なみだ。職員に あいさつして、なみだ。3人そろって ないてるもんだから、相乗効果。共鳴する感動…。 福祉施設の実習は いやだったけど、いろいろ かんがえが かわったということをおっしゃっておられたようです。 印象的だったのは、自閉症の利用者さんに、わかれの あいさつをしているときで、なきながら こえをかけているんだけど、いわれてるほうは、かおをそむけて、てきとーに うなづいているのでした。いかにも そのひとらしくて、わたしは ほほえましかったのですけれど、実習生さんたちは、すこし さみしそうにしていました。 その利用者さんは、くちうるさく いわれると ほかのひとをつきとばしてしまったり、みみをふさぐ ひとなんですけれど、ひととのコミュニケーションは だいすきな

    自閉者と自分勝手なコミュニケーション - hituziのブログ 無料体験コース
    hituzinosanpo
    hituzinosanpo 2009/03/04
    自分でブクマしてなかったのね。
  • 薬物依存と社会環境 - hituziのブログ 無料体験コース

    たばこには中毒性がある。いや、中毒性はないという主張もあるのかもしれない。だが、重要なのは、たんにたばこに中毒性があるということだけではなく、わたしたちが「たばこには中毒性がある」という知識をもっているということだ。われわれには知識によって左右されている面があるということである。 興味ぶかいはなしがある。ローレン・スレイター『心は実験できるか』第7章「ネズミの楽園[アレグサンダーの依存症実験]」だ。結論をさきどりすると、「アレグサンダーは薬物依存の性質の研究に専念し、依存症とは、薬理の中にあるのではなく、患者をサポートしない社会の複雑な関係性の中にあるとの結論を得た」(246ページ)。 アレグサンダーの実験がおもしろいのは、劣悪な実験状況におかれたラットが依存症になるからといって、それは薬物の作用によるものだとみなすことはできないのではないかという発想にたち、ラットパーク(ねずみ公園)をつ

    薬物依存と社会環境 - hituziのブログ 無料体験コース
  • おたがいのジレンマをさらけだし、みとめあう瞬間 - hituziのブログ 無料体験コース

    の話は やっぱり おもしろいもんだ。もうすこし つづける。 森達也(もり・たつや)さんは、についても あれこれ かんがえをもってるようだ。「1999年のよだかの星」という動物実験をテーマにしたドキュメンタリーも つくってるそうだし。おもしろそうですよ。「他の生命を犠牲にすることでしか生命は持続できないという矛盾」に焦点をあてたとのこと(『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい』2003、晶文社、230ページ)。このから ちょっと引用しよう。麻原被告の こどもとの会話のところ。…でもさ、今こうして歩いているだけでも、虫や微生物を人はたくさん踏みつけてるんだよと僕は言った。不殺生を唱える宗教者や菜主義者に、そんな信条を持たない誰もが思いつく質問だ。土を眺めていたアーチャリーは顔を上げ、如何にも辛そうに、しみじみとこうつぶやいた。 「……そうなんですよねえ」(231ページ)この、「そう

    おたがいのジレンマをさらけだし、みとめあう瞬間 - hituziのブログ 無料体験コース
    hituzinosanpo
    hituzinosanpo 2008/12/16
    "そもそも、対立する両極に「わたしと あなた」を位置づけるのが問題なんだろう。おたがいのジレンマをさらけだし、その ひとつ ひとつに共感していけば、対話は なりたつし、理解しあえる。"
  • 岡山市が「自転車と共存するまちづくり」 - hituziのブログ 無料体験コース

    自転車でいつものように、駅周辺にいく。 ちょうどクレドについたあたりで、びっくりした。クレドの前にいつも、ずらーっと とめてある自転車がないのだ。わたくしも、岡山市内の「迷惑自転車」の共犯者であり、それは もうしわけないことである。そのへんをぐるりと まわってみた。丸善の周辺にも自転車がない。すごいぞ、これは。いままで みたこともない光景だ。「自転車と共存するまちづくり」という旗があちこちに たっていて、そこにお目付役の方が いらした。たいへんご苦労さまです。効果があったようで、なによりです。実施期間は、今月の16日から28日だそう。この期間がおわってしまうと、また もとどおりになってしまうのかもしれないが、それでも教育的効果はあるだろう。わたしも、クレド専用の自転車おきばがあるなんて、しりませんでしたから。 「自転車と共存」か。表現の仕方で、印象も かわるもんですね。「迷惑自転車をゆるさ

    岡山市が「自転車と共存するまちづくり」 - hituziのブログ 無料体験コース
    hituzinosanpo
    hituzinosanpo 2008/12/06
    天皇がくるといって、そのあいだだけ「自転車と共存するまちづくり」を やってみせた おかやま市。(あんご:天皇陛下にささぐる言葉 http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42818_26242.html