今日のバンコクはいつものとおりの雨季の曇り空で、出かけるにはよい日和だったものの、ちょっと必要に迫られて、久しぶりにさぼっていたタイ語の勉強をがっつりやった。語学の勉強というのは創造性が削られていくような感じもするものだが、同時にどこかでその抑圧された創造へのエネルギーが、噴き出す場所を求めて暴れる胎動のような手触りもあって、私にとっては、いつまで経っても独特の感覚がある。 私は「高度お気持ち社会」なる造語をして、しばしばそれを批判することがあるので、わりと「お気持ち」批判の急先鋒だと思われることがあるのだが、私は別に(しばしばそう誤解されるのだけど)人間の「気持ち」というものそれ自体を批判の対象としているわけではない。そもそも、「気持ち」というのは私たちの心に勝手に浮かんでくるものであるというか、より実態に即して言えば、私たちが「心」と呼んでいる現象の内実を構成する要素そのものなので、そ
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