★大正~昭和初頭、ジャーナリストとして活躍した北村兼子が、関西大学卒業を控え、学友会雑誌部発行の『千里山』創刊号に寄稿した「卒業して、それから」という文章。大正15(1926)年2月。男子学生に交じり、ただひとりドイツ法学を学んだ兼子の切実さと情熱がこもった文章です。 ★翌3月、兼子は関西大学を卒業。たったひとりの女子学生ながら男子をしのぐ優秀な成績で全過程を修めた。だが女子だったので学位記はもらえず、「聴講生」としての証明書が発行されている。 ★「卒業生の売れ口が好いとか、悪いとか、相場が高いとか、廉いとか、卒業生身売りの噂が高まる」ということに対し、兼子は吐き気をもよおすとし、次のように続けました。 *** 卒業生の誤りは文化住宅に住みたいと言ふ心にある。精神と肉体と売て、其(その)代償として此等を望む。それもよし併(しか)し傭主に憐みを乞ひ、心にもない愛嬌を作ってまでの交換物としては
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