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建築と美術に関するida-10のブックマーク (3)

  • 彫刻と建築の問題──記念性をめぐって

    ──対談では建築と彫刻の交点から「記念性」を考えます。彫刻家であり彫刻研究者の小田原のどかさんは、今年6月に上梓された『彫刻 1』(トポフィル、2018)をはじめ、作品制作や執筆、出版活動を通して彫刻の議論を展開されています。また建築史家の戸田穣さんは2017年に『建築雑誌』で「建築は記念する」という特集を企画されました。今日は、建築・彫刻の分野における記念性について、きわめて今日的な問題提起を行なっているお二人にお話しいただきます。 戸田穣──このところモニュメントやメモリアルに関心を持っています。最近は特に20世紀後半の日における世俗の慰霊空間について調べていて、2016年には『10+1 Website』に「千鳥ヶ淵から考える慰霊の空間」という文章を寄稿して、谷口吉郎の設計による《国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑》(1958)や海外につくられた慰霊碑について紹介しました。また、日建築学会が

    彫刻と建築の問題──記念性をめぐって
  • watari-um, ARATA ISOZAKI 磯崎新 12x5=60,展覧会

    展は、磯崎新の「建築外的思考」に焦点をあてた展覧会です。 ここで用いられる「建築外的思考」という語には2つの側面があります。先ず一般的な建築の外側の領域、つまり美術、音楽、映像、写真をはじめとする現代の文化表象全般の思考(=手法)という、具体的「建築外」という側面。次に硬直化した近代(建築)に対して、先の文化表象の手法を動員し、その解体と再編を試みる、「アーキテクチャ」という文明論的、思想的「建築外」という側面です。この二面性が、建築家と いう職名を逸脱したアーティスト・アーキテクト、磯崎新の戦術といっても過言ではないでしょう。展では、多面的な逸脱を積極的に強調し、こうした性格を比喩的に「文人」と読み替えることで、あまたある磯崎新展がとらえきれなかった「建築外的思考」の可視化を試みます。 「建築外」極私的空間 磯崎新 「文」人は、書、画、琴、棋を日常的に楽しみ、鑑定、収集、知識のコノワ

    ida-10
    ida-10 2014/10/10
    2014年8月31日[日]-2015年1月12日[祝・月]
  • バロ:謎の駆動式住居

    前回の『聖ヒエロニムス謎の書斎 』では、アントネロ・ダ・メッシーナの『書斎の聖ヒエロニムス』を中心に、 レメディオス・バロの絵も少し紹介しましたが、今回はレメディオス・バロを中心に語ってみたいと思います。 レメディオス・バロは、日では十年以上前に展覧会があったきりで、あまりなじみがありませんが、 最近では、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』(新潮社)の装丁絵に、今回のエントリーのタイトル画像 である『螺旋の路』(部分:レメディオス・バロ 1962 前掲書より)が使われたこともあり、彼女の絵自体は ご存知の方も多いのではないでしょうか。 そういえば、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』には、レメディオスという名前の女性が複数登場します。 なかでも、小町娘レメディオスの消失の場面は、半端ない美しさで、読む者を圧倒します。 3月のある晴れた午後、小町娘レメデイオスが、数人の女性と庭に干した大きな

    バロ:謎の駆動式住居
    ida-10
    ida-10 2014/01/06
    レメディオス・バロ 「放浪者」/モバイルハウス的な
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