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言語に関するimaokazukiのブックマーク (5)

  • 「明治の文豪」はまさに今こそ読むべきだ

    目下ストレートに答えておきたい問題があります。しかし残念ながら、それはまだ今の私の手には余る作業です。そこで、それは置いておいて、少し回り道を書いておきます(昨晩、水村美苗『日語が滅びるとき』買ってきたので書くかもしれません)。 この文書で私が言いたいことは、明治の文豪はまさに今、読むに足る面白さを提供しているということです。 危機から脱し続けた日グローバリゼーションが進行しつつある現在、私たち日人は世界的な金融と IT の波に飲み込まれるかのようです。昭和という時代を通じて国民を守ってきた国境は、その役目を終えつつあるかように見えます。日の没落を前にして、私たちは底知れぬ恐怖と危機感に襲われています。 これを黒船来航から明治維新に喩える人があります。また先の対戦の敗戦に喩える人もありましょう。枠組みは同じです。欧米は巨大であり、その前に日はあまりに弱く、先が見えなかったのです。

    imaokazuki
    imaokazuki 2008/11/15
    共同体に与えろ、与える人には与えられる、損を我慢できる無名エリートの誇り、金銭よりも安心できる暮らし、てめえで思索して子どもに示せ、言葉・文体は世界の捉え方の反映、まだ国を超える共同体システムはない、
  • いつかすべての再生のために - 東京永久観光

    この曲を聴くとあの頃が懐かしい、というのは誰にでもある。 すっかり忘れていた自分の気持ちがふいによみがえる。そのとき見ていた風景や、一緒にいた人の顔や声、べていた物の味や匂いまで思い出す。 自分がつけた日記を読み返すことでも、そういうことは起こりうるのかというと、起こりうるように思う。 ただし、日記というのは、文章をあらかじめ書いておかないといけないし、その文章をいちいち読まないといけない。それに比べ、懐かしの流行歌は、べつに記録したわけではなく、意図して記憶すらしたわけではない。それなのに、そのときの心や体の状態をあたかもそのまま保つかのような働きを自動的にしてしまう。 今、デジカメで何気なく撮っている写真というのは、ちょうど流行歌と日記の中間くらいに手軽で自動的な記録行為かもしれない。そして将来その写真は、忘れてしまった思い出の再生を、ひょっとしたら流行歌や日記を超えるほどの強度と詳

    いつかすべての再生のために - 東京永久観光
    imaokazuki
    imaokazuki 2008/06/28
    画像、音楽には次元的な広がり、厚みがある。言語は超次元的。あの時を思い出すきっかけとなるものについて。思い出してる時に脳内で起こっていることについて。。
  • バケツと世界 - 東京永久観光

    目が生まれつき見えない人に話を聞いたことがある。「言われてみればそうですね」という発見の連続だった。声が聞こえてくる位置から相手の背の高さが分かる。ならという動物がどういうものかは、触ったり持ち上げたりした感じによって作られる。逆に、触れたことがないものは未知の存在であり、どういうものであるかの知識や実感がなかなかもてない。などなど。 とりわけ思いがけない指摘がひとつ。彼らは、点字と同じポツポツの線画を使って様々な形を表わしたり教わったりするという。たとえば日列島がどんな形なのかなどもそうした描線で学習できる。さてある日、目の見える人がその線画でバケツの絵を描いたそうだ。しかしそれに触って彼らは首をかしげてしまった。「バケツはこんな形をしていませんよ」。 その絵はバケツを斜め上から眺めた形だったのだ。三次元の物体を二次元の絵に落とし込むこのやり方は、ごく当たり前に感じられるが、じつは

    バケツと世界 - 東京永久観光
  • クリシェと割れた言葉 - 内田樹の研究室

    新学期になってフランス語とクリエイティヴ・ライティングの授業が始まる。 フランス語は仮履修者名簿には18名とあったので、教室に行ったら40人ほどの学生が待っていた。 残りの方たちは聴講生だそうである。 イントロダクションとして、「なぜ外国語を学ぶのか」について話す。 クリエイティヴ・ライティングの授業は10名から15名程度の学生たちを相手に、膝つき合わせてしみじみと文章修業をする予定で、資料を少し多めに20枚刷って教室に行ったら、学生が廊下に溢れ出していた。 広い教室に移動してもらったけれど、それでも100名近くいる。 100名を相手に文章修業の添削なんかしてられない。 申し訳ないけれど、「冷やかし」の方と、それほどモチベーションがない方はご遠慮願いたいと申し上げたら、ぞろぞろと帰って行った。 授業が始まって私が話している間も、二人三人と席を立って帰って行く。 要するに私の話を聴いて「つま

  • 「政治的に正しいこと」は正しいのか? - 内田樹の研究室

    バリ島海水浴でばりばりに日焼けした上にスキー焼けしたので、季節感のない色黒男になってしまった。 むかしはこういうのを「くろんぼ大会」と称したのであるが若い人はご存じないであろう。 1960年代までは夏休み明けに一番黒く日焼けした子どもを学校で表彰していた。 たいへんよい企図のものであったと思うのだが、「くろんぼ」がご案内のとおりポリティカリーにコレクトではないということで使用禁止用語となり、ついでに「よく遊んだこと」を肌の黒さを基準に考量し、これを讃えるという風儀もまた失われたのである。 ポリティカル・コレクトネスによる用語制限によって私たちが得たものと失ったものはどちらが多いのか、ときどき疑問になる。 自分の語法に伏流するイデオロギー性を自己検閲する習慣を定着させたという功績はむろん高く評価されねばならぬ。 だが、PC の難点は「自分の語法に伏流するイデオロギー性を自己検閲する習慣に伏流

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