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2020年3月8日のブックマーク (24件)

  • うつのみや妖精ミュージアム 図書検索

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    inmymemory 2020/03/08
    ユーフィズム
  • ゴンゴリスモ(ごんごりすも)とは? 意味や使い方 - コトバンク

    17世紀のスペインの詩人ゴンゴラの名に由来する独特な表現法で、文飾主義culteranismoともよばれる。同時代のイギリスのユーフィズム、フランスのプレシオジテ、イタリアのマリニズモなどと同じように、極端に技巧を重視するバロック詩の典型的な表現法の一つで、その特徴は、ラテン語の語彙(ごい)や構文を大胆に取り入れた破格的なスペイン語で、意表をつく特異な隠喩(いんゆ)を多く用いた点にある。したがって、この派の作品は一般にきわめて晦渋(かいじゅう)なものが多い。ゴンゴリスモは、これと対立する奇想主義とともに、17世紀のスペイン文学に多大の影響を及ぼしたのみならず、20世紀になってふたたび見直されている。 [桑名一博]

    ゴンゴリスモ(ごんごりすも)とは? 意味や使い方 - コトバンク
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    inmymemory 2020/03/08
    文飾主義 culteranismo。同時代のイギリスのユーフィズム、フランスのプレシオジテ、イタリアのマリニズモなどと同じように、極端に技巧を重視するバロック詩の典型的な表現法
  • トルバドゥール - Wikipedia

    トルバドゥール(Troubadour)、トゥルバドゥールは、中世のオック語抒情詩の詩人、作曲家、歌手のこと。リムーザン、ギュイエンヌ(Guyenne)、プロヴァンス、さらに、カタルーニャ、アラゴン王国、ガリシア、イタリアで活躍した。女性のトルバドゥールはトロバイリッツ(Trobairitz)と呼ばれる。 トルバドゥールの詩の多くは、騎士道と、高貴な女性への憧れや恋という宮廷の愛をテーマにしたものであった。特に、人となった貴婦人を想う真実の愛の歌が有名である。西ヨーロッパの文学は12世紀に分水嶺があり、それまでは「ローランの歌」にみられるような、粗野で武骨な戦闘的ゲルマン人の一途な騎士魂の発露、武勲詩であり、そこに愛や雅びの精神、女性に対する愛はなかったが、12世紀に南フランスのプロヴァンスで、突然トルバドゥールの愛の抒情詩が歌われるようになった[1]。突如として現われたそれは、ペトラルカ

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    中世のオック語抒情詩の詩人、作曲家、歌手。リムーザン、ギュイエンヌ、プロヴァンス、カタルーニャ、アラゴン、ガリシア、イタリアで活躍。女性のトルバドゥールはトロバイリッツ
  • ジャウフレ・リュデル - Wikipedia

    トリポリ伯夫人オディエルナの腕の中で息絶えるジャウフレ・リュデル ジャウフレ・リュデル(Jaufré Rudel)は、ブレ(Blaye、現ジロンド県)出身の下級貴族でトルバドール。12世紀に活躍した。「遠くからの恋 amor de lonh」という概念を展開したことで著名。日音楽学者からは、現代フランス語によってジョフレ・リュデルと呼ばれている。 概要[編集] 生涯についてはほとんどが不明であるが、同時代の資料によると、1147年に「海を渡って」第2回十字軍に参加したという。伝説めいた、虚実交えた『略伝(ヴィーダ)』によると、ジャウフレ・リュデルは、美貌のトリポリ伯夫人オディエルナが聖地巡礼から戻ったことを聞き付け、オディエルナを自分の「遠くからの恋」の女神とした。十字軍の遠征中に病に倒れ、レバノンのトリポリに到着した時には余命いくばくもない状態だった。その報せに、オディエルナは城郭を

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    トルバドール。12世紀に活躍。「遠くからの恋 amor de lonh」という概念を展開した。ジョフレ・リュデル
  • アルナウト・ダニエル - Wikipedia

    アルナウト・ダニエル (Arnaut Daniel 活動時期:1180年頃-1200年頃)(アルノー・ダニエル)は中世フランス南部の吟遊詩人トルバドゥールの一人。オック語による押韻の技巧を凝らした詩で知られる。 アルナウトの生涯についてはほんの僅かであるがヴィダス Vidas で触れられている。 『アキテーヌ地方ペリゴール(現在のドルドーニュ県)のリベラック(Riberac)村にあった城で高貴な身分に生まれ、学問と詩作に励んだが、後に地位を捨ててジョングルールとして諸国を遍歴した。極めて凝ったカンソを作ったが、余りに難しいために理解する事も覚える事も容易でなかった。ガスコーニュ(現在のランド県とピレネー=アトランティック県)の身分の高い既婚の貴婦人に恋をしたが、それが叶えられたとは誰も信じなかった。』 セスティーナと呼ばれる6行6連詩を作った事でも知られ、またイタリア北部の清新体派の詩に影

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    中世フランス南部の吟遊詩人トルバドゥール。オック語による押韻の技巧を凝らした詩
  • ジョヴァンニ・ボッカッチョ - Wikipedia

    ジョヴァンニ・ボッカッチョ(伊: Giovanni Boccaccio, 1313年6月16日 - 1375年12月21日)は、中世イタリア、フィレンツェの詩人、散文作家、イタリアルネサンス期のヒューマニスト(人文主義者)。 生涯[編集] フィレンツェ商人の父と名もなきフランス人女性との間に私生児として生まれたとされるが、出生地は不明であり、チェルタルドやパリとする説もある。なお、ボッカッチョの父はすぐに彼を認知する。 ボッカッチョはフィレンツェで成長し、家庭教師であるジョヴァンニ・ディ・ドメニコ・マッツオーリ・ダ・ストゥラーダによって早くからダンテの作品を学んでいたと言われている。 代表作は1349年から1351年に書かれた『デカメロン』(十日物語)。初期の作品には『女神ディアーナの狩り』(1334年頃)、『フィローストラト』(1335年頃)、『フィローコロ』(1336年頃)などがあり、

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  • ジャコモ・レオパルディ - Wikipedia

    ジャコモ・レオパルディ(Giacomo Taldegardo Francesco di Sales Saverio Pietro Leopardi, Conte di San Leopardo)はイタリアの詩人で随筆家、哲学者、文献学者。 経歴[編集] ジャコモ・レオパルディは1798年、当時教皇領のマルケ州レカナーティの地方貴族(伯爵)の家に生まれた。父親は文学愛好家で教養があったものの、政治的には保守的な人物で、母親は冷たく権威主義的な人物だった。しかしレオパルディは幼少期を兄妹たちと楽しく過ごし、その時の思い出が後に作品の主要なテーマとなった。 家の伝統から家庭内で神父による教育が授けられた。また父親が作った膨大な数の書籍を収めた図書館で、レオパルディは古典的な教育を受けた。彼はこの時の広範な読書によって、様々な分野の知識を得ることになり、特に古典文学の教養を深めた。ラテン語はもちろ

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    イタリアの後世の作家や詩人だけでなく、ショーペンハウアー、ニーチェ、ベンヤミン、メルヴィル、カミュ、ベケットにも影響を与えた
  • オクタビオ・パス - Wikipedia

    オクタビオ・パス(スペイン語: Octavio Paz, 1914年3月31日 - 1998年4月19日)は、メキシコの詩人・批評家・外交官。 経歴[編集] メキシコシティ出身。進歩的文化人だった祖父の影響で文学的関心を深め、19歳で処女詩集『野生の月』を発表している。1937年、内戦下のスペインで開かれた反ファシスト作家会議に参加。翌年に帰国してからは、新世代を代表する作家として精力的な執筆活動を開始する。1944年にアメリカに留学、翌年にはパリに渡る(この時、バンジャマン・ペレを介してアンドレ・ブルトンらのシュルレアリストの知遇を得る[1])。 1946年には外交官になり、ヨーロッパ各国を転々としながら『弓と竪琴』『孤独の迷宮』などを執筆する。 戦後七年目ごろ(1952年)には若い駐日代理大使として来日し、日に強い関心を抱いた。パスは、日人・外交官林屋永吉(のちスペイン大使)と共に

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  • デレック・ウォルコット - Wikipedia

    デレック・オールトン・ウォルコット(Derek Alton Walcott, 1930年1月23日 - 2017年3月17日[1])はセントルシア出身の詩人、劇作家。1992年、カリブ海諸国出身者として初めてノーベル文学賞を受賞。 経歴[編集] 当時イギリス領だったセントルシアのカストリーズに生まれる。父方はイギリス系、母方はオランダ系・アフリカ黒人の血を引いている。18歳で初めて詩集を発表。西インド諸島大学を卒業後、ニューヨークで演劇を学び作劇にも進出、トリニダッド・シアター・ワークショップを設立した。2007年までボストン大学の教授を務めた。2010年、英国のエセックス大学教授に就任した。 2008年、初の単著の邦訳『オデッセイ』が刊行された。 邦訳[編集] 『デレック・ウォルコット詩集』徳永暢三編訳 小沢書店 双書・20世紀の詩人 1994 『アンティール諸島 叙事詩的な記憶の断片

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  • ホセ・マルティ - Wikipedia

    スペイン・バレンシア市内にある、幼少時のホセ・マルティが1857年から1859年まで居住していたことを示す標識 ハバナ市の革命広場にある、ホセ・マルティ・メモリアル像 ホセ・フリアン・マルティ・ペレス(José Julián Martí Pérez, 1853年1月28日 - 1895年5月19日)は、キューバの著作家、革命家。19世紀後半のキューバ独立革命に参加し、キューバ史における英雄としてだけでなく、ラテンアメリカにおけるモデルニスモの先駆者としても名高い。 生涯[編集] ホセ・マルティは1853年にスペイン領キューバのハバナ市で、スペインからの移民であったマリアーノ・マルティとレオノール・ペレス・カブレラとの間に生まれた。4歳の時に父親・マリアーノの出身地・バレンシアに移住するが、その2年後にキューバに再び帰国した。1865年、詩人で独立思想家のラファエル・マリア・メンディベが校長

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    ニカラグアのルベン·ダリオ、ウルグアイのホセ・エンリケ・ロドーと共にラテン・アメリカのモデルニスモを代表する詩人
  • ルベン・ダリオ - Wikipedia

    フェリクス・ルベン・ガルシア・サルミエント(Félix Rubén García Sarmiento、1867年1月18日- 1916年2月6日)は、ルベン・ダリオ(Rubén Darío)のペンネームで作品を発表した詩人である。 キューバのホセ・マルティ、ウルグアイのホセ・エンリケ・ロドーと共に19世紀後半〜20世紀初頭のラテン・アメリカ(中南米)のモデルニスモを代表する詩人であり、19世紀のラテン・アメリカで最も偉大な詩人と称される。ニカラグア生まれで、ニカラグアではアウグスト・サンディーノと並んで国民的な英雄となっている。 彼の詩は、当時の淀んだ単調なスペイン語詩に活力をもたらした。 2002年から発行されていた100ニカラグア・コルドバ紙幣に肖像が使用され、2009年のデザイン変更後は同国の首都・マナグアにあるダリオ記念像がデザインされている。 略歴[編集] ルベン・ダリオはニカラ

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    キューバのホセ・マルティ、ウルグアイのホセ・エンリケ・ロドーと共に19世紀後半〜20世紀初頭のラテン・アメリカのモデルニスモを代表する詩人であり、19世紀のラテン・アメリカで最も偉大な詩人
  • アントニオ・マチャード - Wikipedia

    ホアキン・ソロラによる1917年の肖像画 アントニオ・マチャード(Antonio Machado、1875年7月26日 - 1939年2月22日)は、スペイン・セビリア出身の詩人。 1898年の米西戦争の敗戦をきっかけに自国の後進性を直視した一群の知識人、哲学者のミゲル・デ・ウナムーノやオルテガ・イ・ガセット、小説家のアンヘル・ガニベー、詩人のフアン・ラモン・ヒメネス(1956年ノーベル文学賞受賞)・ホセ・マルティネス・ルイスなどとともに、「98年世代」と呼ばれるスペイン文学運動の主要人物の一人。 1910年 1925年 1927年 1875年にセビリアで、兄マヌエル・マチャードの一年後に生まれた。 1883年に家族でマドリードに引っ越し。兄弟でエンセニャンサ文学学校に入り、教師から激励され文学に目覚める。マドリードで学位を取り、金がなかったので役者などの仕事をした。 1899年、兄弟はフ

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    ルベン・ダリオやフェデリコ・ガルシア・ロルカに影響を受けた。オクタビオ・パス、デレク・ウォルコット、ジャンニアナ・ブラスキに影響を与えた
  • グスタボ・アドルフォ・ベッケル - Wikipedia

    グスタボ・アドルフォ・ベッケル(Gustavo Adolfo Bécquer, 1836年2月17日 - 1870年12月22日)は、スペインの詩人、散文作家。抒情詩に優れ、スペインの国民的詩人とされる。名はグスタボ・アドルフォ・クラウディオ・ドミンゲス・バスティーダ(Gustavo Adolfo Claudio Domínguez Bastida)[1]。グスターボ・アドルフォ・ベッケルと表記される場合もある[2]。 健康と家庭に恵まれず、不遇の生涯を送った末に夭折。死後に唯一の詩集『抒情詩集』を遺した。スペイン近代詩の源流として高く評価され、後世の詩人に大きな影響を与えた。 生涯[編集] セビリアに生まれる。父は著名な風俗画家であったホセ・ドミンゲス・ベッケル。8人兄弟の5番目であった[3]。5歳で父と、10歳で母と死別[1]。伯母に引き取られる。孤児のために設置された海員学校に入学

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    inmymemory 2020/03/08
    『抒情詩集』には愛の歓喜や苦悩、孤独、死の予感など内的世界が真摯に歌われ、スペイン近代詩の先駆け、スペインロマン主義の最高傑作としてフアン・ラモン・ヒメネスら後世の詩人に多くの影響を与えた
  • フアン・アントニオ・ビジャカーニャス - Wikipedia

    フアン・アントニオ・ビジャカーニャス (スペイン語: Juan Antonio Villacañas, 1922年 - 2001年8月21日)は、トレド生まれ、スペインの詩人であり、エッセイスト、批評家。 来歴[編集] 1922年、スペインの中央部トレドで生まれる。スペイン内戦(1936-1939)により、中等教育を受ける期間は短く、兵役で、モロッコ北東部メリリャとアラン谷という異境へ行く。メリリャでは、Military Club図書館の再組織の責任者を務め、効果のある自学自習の方法である、広範囲のことを興味を持って読む作業を推奨した。(発展させた。)トレドに戻ったフアンは、町議会議員になり、後にそこで芸術文化課の責任者を長年務める。彼の詩集であるLos Sapos(1968)の中で彼は、権力に対しての批判とその悪用性を説き、町議会はそのような実際に存在する権力だと比喩した。 1956年に

  • ジュアン・マラガイ - Wikipedia

    ジュアン・マラガイ (Joan Maragall i Gorina, 1860年10月10日 - 1911年12月10日)は、カタルーニャの詩人・ジャーナリスト。カタルーニャ現代詩を代表する人物の1人である。 19世紀にカタルーニャ知識人たちが中心となったラナシェンサ(カタルーニャ・ルネサンス運動)に参加していた。彼は450以上の文学作品(記事、散文、伝記など)を生み出した。彼はジャーナリストとしてディアリ・デ・バルセロナ紙、ラ・ベウ紙上で活動し、それは社会的に大きな影響を与える、彼の視点を投影させる有効な手段の1つとなった[1]。 彼はゲーテ、ニーチェ、ノヴァーリスらドイツ文学者の作品をカタルーニャ語に翻訳し紹介した。 1人の人物としてマラガイはカトリック信仰篤い人物で、強い政治的意見を持っていた(カタルーニャ・ナショナリズム政党に近い意見を持っていたが政治に関わることはなく、選挙への出

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    inmymemory 2020/03/08
    カタルーニャ現代詩を代表
  • ジャシン・バルダゲー - Wikipedia

    ジャシン・バルダゲー・サンタロー(カタルーニャ語: Jacint Verdaguer i Santaló, カタルーニャ語発音: [ʒəˈsim bərðəˈɣe], 1845年5月17日 – 1902年6月10日)は、スペイン・バルセロナ県出身の詩人・聖職者。カタルーニャ語文学最高の詩人とされており、19世紀中頃のカタルーニャ地方で興ったロマン主義的なラナシェンサ運動に関わった。カタルーニャ民族主義の牽引者だったジュゼップ・トラス・イ・バジェス(スペイン語版)司祭はバルダゲーを「カタルーニャ詩人の王子」と呼んだ。 経歴[編集] バルセロナのバルダゲー広場にある銅像 1845年5月17日、カタルーニャ地方内陸部のビック平原にあるバルセロナ県フルガローラス(スペイン語版)に生まれた。父親はバルセロナ県タベルヌラス(スペイン語版)出身のジュゼップ・バルダゲー・イ・オルデシュ(1817-1876

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  • フランシスコ・デ・ケベード - Wikipedia

    フランシスコ・ゴメス・デ・ケベード・イ・サンティバーニェス・ビジェーガス(Francisco Gómez de Quevedo y Santibáñez Villegas, 1580年9月14日 - 1645年9月8日[1][2])は、スペイン文化の黄金時代を代表する作家、詩人。スペイン文学史上最大の存在感を持つ人物の一人である。 Quevedo (Retratos de Españoles Ilustres, 1791) 来歴[編集] カスティーリャのラ・トーレ・デ・フアン・アバド(スペイン語版)の町に所領を持つ郷士の家に生まれる。生誕地はマドリード。20代半ばで詩人として頭角を現し、愛についての詩から強烈な風刺詩まで様々なテーマの詩を発表し続けて注目を集める(ただし単著が出版されたのは死後のことである)。 スペイン・バロック文芸の有力な潮流の一つであるコンセプティスモ(直接的な表現、切

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    inmymemory 2020/03/08
    スペイン・バロック文芸の潮流の一つであるコンセプティスモ(直接的な表現、切れの良いリズムを高く評価する運動)の雄として知られ、その正反対の潮流であるカルテラニスモの首領たるルイス・デ・ゴンゴラと対立
  • オリシェ - Wikipedia

    オリシェ(Orixe, 1888年12月6日 - 1961年10月9日)は、スペイン・ギプスコア県・オレシャ出身の著作家。バスク語で詩・小説・随筆などを創作し、特に詩人として知られた。名はニコラス・オルマエチェア・ペジェヘーロ (Nikolas Ormaetxea Pellejero)。 経歴[編集] バスク時代[編集] ギプスコア県・オレシャ(Orexa)に生まれたが、両親の下には既に多くの子供がいたため、ナバーラ県・ウイシの乳母の下で育った[1]。17歳だった1905年にナバーラ県・ハビエルにあったイエズス会に入り、1907年からはギプスコア県・アスペイティアにあったロヨラ聖堂で牧師の修業を積みながら西洋古典を学び、古代ギリシアのホメーロスや古代ローマのウェルギリウス、19世紀のプロヴァンス語詩人のフレデリック・ミストラルなどに傾倒した[2]。1923年から1931年にはビスカヤ県・

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  • フアン・デル・エンシーナ - Wikipedia

    フアン・デル・エンシーナ フアン・デル・エンシーナ(Juan del EncinaまたはEnzina, 1469年 - 1533年)はスペイン・ルネサンスの作曲家・詩人・劇作家。カトリック両王時代を象徴する文芸人であり、しばしばスペイン演劇(スペイン黄金世紀演劇)の創立者と呼ばれる。サラマンカ近郊の、おそらくエンシーナ・デ・サンシルベストレの出身。サラマンカ大学を卒業してすぐアルバ公に執事として仕える。 1492年に、グラナダ陥落を記念して執筆した戯曲『名誉の勝利 Triunfo de la fama 』によってアルバ公を楽しませる。1496年に、叙事的な戯曲や抒情詩を集めた『カンショネーロ Cancionero 』を上梓すると、この戯曲はそれから20年間にたびたび版を重ねた。数年後にローマを訪れ、音楽的力量によってローマ教皇アレクサンデル6世を魅了し、ローマ教皇庁の聖歌隊長に任命される。

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  • ミゲル・エルナンデス - Wikipedia

    ミゲル・エルナンデス・ジラベルト (Miguel Hernández Gilabert, 1910年10月30日 – 1942年3月28日[2][3]) は、スペイン・オリウエラ出身の詩人・劇作家。27年世代や36年世代と関係した、20世紀を代表するスペイン語圏の詩人であり劇作家でもあった。 経歴[編集] エルナンデスは、バレンシア地方のオリウエラの貧しい家庭で生まれ、あまり教育を受けられずに育った。23歳の時に詩集を初めて出版し、著しい名声を得た。幼少期は大部分を羊飼いや農家のように過ごし、基礎教育を公立学校やイエズス会の学校で受けたが、大部分は独学であった[4]。友達のラモン・シヘから、文学を紹介された。青年の時は、叙情的なバロック詩人のルイス・デ・ゴンゴラにあこがれ、初めての作品に影響をもたらした[4]。フランシスコ・デ・ケベードのようなスペイン文学黄金世紀の作家に影響された他、同時

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  • ホセ・デ・エスプロンセダ - Wikipedia

    ホセ・デ・エスプロンセダ(José de Espronceda、洗礼名:José Ignacio Javier Oriol Encarnación de Espronceda y Delgado、1808年3月25日-1842年5月23日)は、スペインの詩人である。19世紀スペインのロマン主義では、最も重要な人物の1人である。 人生[編集] エスプロンセダは、バダホス県のアルメンドラレホで生まれた。若い頃、彼は秘密結社を組織し、ラファエル・デル・リエゴの復讐を目的としてフェルナンド7世の打倒を企てた。この計画のせいで、彼は修道院に幽閉され、亡命した[1]。その後、彼はスペインを出て、リスボン、ベルギー、フランス、イングランド、ホラント州等で生活した。1833年にスペインに帰国すると、彼は極左の立場で積極的に活動を行った。エスプロンセダは、彼が"Canto a Teresa"の中で描いている

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    19世紀スペインのロマン派
  • ホセ・ソリーリャ - Wikipedia

    ホセ・ソリーリャ・イ・モラル (José Zorrilla y Moral スペイン語発音: [xoˈse θoˈriʎa]1817年2月21日 - 1893年1月23日)は、スペインの劇作家、詩人。 生涯[編集] スペインのバリャドリッドで誕生した。父はフェルナンド7世に信任された治安判事であり、保守派にして絶対王政派である[1]。バリャドリッドからブルゴスやセビリアを経て9歳の時マドリードに移り、イエズス会系の神学校で学ぶ。この頃12歳で韻文を書く。フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンやウォルター・スコットに夢中になり、ロペ・デ・ベガやペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカの戯曲を基にした学校演劇に参加した[2]。 父のたっての願いでトレドに送られて1833年トレド大学で法を学ぶが法律に関心が持てず、のち1835年バリャドリッド大学に通う。この頃にジェイムズ・フェニモア・クーパー、ヴィク

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    19世紀スペインのロマン派
  • イブン・ザイドゥーン - Wikipedia

    イブン・ザイドゥーン(Ahmad Ibn Abdallah Ibn Zaidun 1003年 - 1071年)は、アンダルスのウマイヤ朝に仕えた詩人・政治家。アンダルス時代のイベリア半島を代表する詩人の一人である[1]。 コルドバの名家に生まれる。ムハンマド3世の宮廷に仕え、その娘の王女ワッラーダの秘書官となる。ほどなく彼女と恋仲となって、王の目を盗んで王女と逢引を繰り返し、文学史上に残る数々の相聞歌を残す[2]。 やがてワッラーダがイブン・アブドゥースに心を移したため、これに憤慨して彼を非難する書簡をしたためたが、これもまた文学史上に残る傑作となった。しかし、そのことが原因で投獄され、亡命を余儀なくされる。一時は許されてコルドバに帰ったが、1049年にセビリアに移住。当地で再び立身し、大臣までに上り詰め、二十数年を経て当地で歿した。 イブン・ザイドゥーンとワッラーダの相聞は、後ウマイヤ朝

  • フェデリコ・ガルシーア・ロルカ - Wikipedia

    フェデリコ・ガルシーア・ロルカ マドリード市サンタ・アナ広場のロルカ像 フェデリーコ・デル・サグラード・コラソン・デ・ヘスス・ガルシーア・ロルカ(Federico del Sagrado Corazón de Jesús García Lorca、1898年6月5日 - 1936年8月19日)は、スペイン・グラナダ県出身の詩人・劇作家。ガルシア・ロルカとも表記される。27年世代のひとり。 評価[編集] ロルカは画家サルバドール・ダリや映画監督ルイス・ブニュエル、評論家セバスティア・ガッシュなど様々な親交があった。ダリには詩集を捧げており、彼の妹とも親しかった。その一方で、作品の内容から彼は同性愛者であったと言われている。 アンダルシアのジプシーを詠んだロマンセ(歌)集『ジプシー歌集』が代表作である。(もっとも、アンダルシア人からはこれは実像でないと批判された。作家ボルヘスは彼を「プロのアン

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    inmymemory 2020/03/08
    日本でも1930年には詩が訳されている。戦後になって劇作品が多く上演。三島由紀夫も激賞。生きていればノーベル文学賞の受賞も有り得た