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ブックマーク / call-of-history.com (15)

  • 「姑娘」水木しげる著

    水木しげるが後年、中国出兵していた人物から聞いた体験談を元に描いた短編作品。姑娘(クーニャン)とは、中国語で若い未婚女性、お嬢さんといった意味である。 第二次世界大戦中、中国侵略を進めていた日軍のある分隊は、小さな村へと侵攻、ある家に女性物の下着が干されているのを発見したことから、狂気にかられ始めていく・・・ 「姑娘を捕虜として部隊長の前へ出せば「殊勲甲」まちがいなしというところでしょう!」そう部下が進言し、分隊長も「どうやら敵もいないようだし・・・・・・こうなったら姑娘ひとりでもつれてかえらなきゃあ手ぶらでかえるわけにもいかんな!」その部隊の暗黙の了解として、中国人女性の略取が日常化していたかのように描かれている。 かくして分隊長以下若い女性「姑娘」探しに奔走。ついに、彼らは村長宅で息を潜めて隠れている村長の娘を見つけ出し、懇願する村長夫婦を一喝して、強引に彼女を連れ去っていくのだった

    「姑娘」水木しげる著
  • 「薩摩島津氏の琉球侵攻」(1609年)まとめ

    1609年三月、島津軍が琉球王国に侵攻し奄美大島、徳之島、沖永良部島、そして沖縄島と次々攻略。琉球王国軍の抵抗むなしく、四月四日、首里城が陥落、尚寧王は降伏し、独立国家琉球王国は、引き続き中国からの冊封体制下にありつつ、徳川幕藩体制の中に組み込まれる両属体制時代に入ることとなった。「薩摩島津氏の琉球侵攻あるいは琉球出兵」として知られるこの事件について、簡単にまとめ。 主に上里隆史著「琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻」に従いつつ、記事末に挙げた琉球史関連の書籍・論文を参照。年号表記は和暦、中国暦、西暦を併記すべきところだが、冗長になるので一律西暦表記している。(参考、日:慶長十四年=明・琉球:万暦三十七年=西暦1609年) 徳川政権の事情秀吉死後、実権を握った徳川家康にとって最大の懸案が秀吉による朝鮮出兵の戦後処理だった。1599年の倭寇禁止令で東シナ海の治安回復に取り組む姿勢をアピー

    「薩摩島津氏の琉球侵攻」(1609年)まとめ
  • 「ヒトラー・ユーゲント 青年運動から戦闘組織へ」平井正 著

    アドルフ・ヒトラー政権下のドイツでは、ナチ党の下部組織「ヒトラー・ユーゲント」に青少年が強制加入させられて、国家共同体への奉仕とナチズムの思想教育が行われ、全体主義体制を支える基盤として機能させられていた。書は、戦中の日とも馴染みが深い「ヒトラー・ユーゲント」の成立から崩壊までを通観した一冊で、とても面白かった。 書によれば「ヒトラー・ユーゲント」の成立から崩壊までの過程は五段階に分けられるという。 「第一段階では、党から無視された若者の集団が、一応『ヒトラー・ユーゲント』として存在を認められる。第二段階では党首ヒトラーが、それを自分に無条件に服する集団として公認し、自分と個人的な関係で結ばれたシーラハを指導者に指名する。第三段階ではヒトラーの政権獲得によって、党組織としての『ヒトラー・ユーゲント』への加入者が激増すると同時に、ナチの『一元化』政策を踏まえて、シーラハがさまざまな青少

    「ヒトラー・ユーゲント 青年運動から戦闘組織へ」平井正 著
  • 「臨時軍事費特別会計 帝国日本を破滅させた魔性の制度」鈴木 晟 著

    太平洋戦争へ至る過程で軍部の台頭を許した大日帝国の制度的欠陥の一つが「臨時軍事費特別会計」である。 臨時軍事費特別会計は大日帝国下で戦時に戦費支出目的で定められる特別会計制度で日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦・シベリア出兵、日中戦争(支那事変)・太平洋戦争の四度設けられた。それぞれの支出額は日清戦争:約二億円、日露戦争:約十五億円、第一次・シベリア:約八億八千万円、日中・太平洋戦争:約一五五三億九千万円。 その特徴は 「一般会計とは異なり、いずれも戦争の勃発から終結までを一会計年度とし不足分は追加予算で補われる」(P90)こと「戦争の終結までが一会計年度であるので、その間に陸海軍省は議会にたいして決算報告の義務がない」(P96)ことである。 臨時軍事費特別会計法(昭和十二年法律八十四号) 第一条 支那事変ニ関スル臨時軍事費ノ会計ハ一般ノ歳入歳出ト区分シ事件ノ終局迄ヲ一会計年度トシテ特

    「臨時軍事費特別会計 帝国日本を破滅させた魔性の制度」鈴木 晟 著
  • 「砂糖の世界史 (岩波ジュニア新書)」川北 稔 著

    1996年の発売以来売れ続けている世界史入門定番の一冊。砂糖の広がりを通じて様々な地域がつながりあい、ダイナミックに変化していくさまが平易なことばとわかりやすい解説で描かれており、世界史の面白さがこれ以上ないほどに詰まっているので、まぁ、読んでいる人の方が圧倒的に多いでしょうが、あらためて紹介しておこうという記事。 書とあわせて記事下に列挙した書籍を参考にしつつ、大まかな砂糖を巡る歴史を概観しておこう。 歴史上、砂糖は西漸しつつ世界に広がった。砂糖の原料であるサトウキビはムスリム商人によってイスラーム世界の拡大とともに西へ西へと伝播し、十字軍によって地中海世界へ、スペイン・ポルトガルによって大西洋諸島さらに新大陸南米へ、イギリスによってカリブ海諸島へと広がりを見せる。この拡大の過程で砂糖は「世界商品」として人びとの生活に欠かせないものとなっていく。 サトウキビ栽培と製糖の特徴として、第一

    「砂糖の世界史 (岩波ジュニア新書)」川北 稔 著
  • 「フランスにおける脱宗教性(ライシテ)の歴史」ジャン・ボベロ著 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    フランスを代表するライシテ研究の第一人者による、フランス革命から二〇世紀初頭までのライシテが確立していく歴史を概説した一冊。現在のライシテが直面する変化についても若干の言及が加えられている。 『国教を立てることを禁じ、いっさいの既成宗教から独立した国家により、複数の宗教間の平等ならびに宗教の自由(個人の良心と集団の礼拝の自由)を保障する、宗教共存の原理、またその制度。国家と公立学校などの公的領域を脱宗教化することで、私的領域における宗教の自由を保障するライシテの公私二元論は、宗教的民族的出自から切り離された普遍的市民権のベースにもなっている。』(P9) 書では脱宗教化と世俗化とは明確に区別される。脱宗教化とは『法律によってライシテに基づく公教育や政教分離が制度化される過程を示し』(P10)、世俗化とは『市民社会と文化・習俗において宗教の影響が減退する過程を示す』(P10)。このでは前者

    「フランスにおける脱宗教性(ライシテ)の歴史」ジャン・ボベロ著 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • 「革命前夜の地下出版」ロバート・ダーントン 著

    フランス革命前夜、十八世紀のフランスにおいて禁書、海賊版を流通させる地下出版の国際的なネットワークがあった。誹謗中傷、反権力、ゴシップ、性的・政治的ポルノ・・・およそ低俗とされる様々な出版物が、スイスなどフランス国外で印刷され、密輸業者によってフランスに運び込まれ広く行き渡る。その著者となったのが啓蒙思想家に憧れながら、啓蒙思想家になれず、階級社会の底辺でうごめく三文文士たち、いわゆる「どぶ川のルソー」たちで、い詰めた彼らの活動が、やがて革命を準備していく。 書は「の大虐殺」で名高い歴史家ロバート・ダーントンが幅広く史料を渉猟して1982年に書き上げたフランス革命研究の基書の一つで、後にアナール学派を代表する歴史家ロジェ・シャルチエとの論争でも話題になった。しかし残念ながら絶版。 (2015年10月に岩波人文書セレクションから再販されました) ヴォルテール、ディドロ、ダランベール、

    「革命前夜の地下出版」ロバート・ダーントン 著
  • 箸食誕生の歴史

    箸の誕生箸は黄河流域で誕生した。現在見つかっている最古の箸は河南省安陽県の殷墟(紀元前十八世紀~紀元前十一世紀)から出土した銅製の箸だが、当時は手であったことは明らかであることから、事用ではなくべ物を取り分ける、あるいは祭祀用のものだと考えられている。 おそらく黄河流域では、『獣肉や野菜を包丁と俎でべやすい大きさに料理してべていた。べるときに、フォークや匙でなくて、手の感覚を延長して、汁の実などを挟みあげたくなったのであろう。熱いべ物を取り出すのに、指先に代わる竹ぎれか木ぎれを使ったのが、箸の始まりといわれる。一の棒ではべ物を固定できないので、二でそれをしっかり挟み上げるようにしたのである。』(向井、橋「箸 ものと人間の文化史102」) これが直接箸を使ってべ物を口に運ぶようにはならなかった。箸は、事を取り分けたり、調理する際に箸を使って固定したりする用途に使

  • 醤油の歴史 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    古代日の調味料奈良時代から平安時代にかけて、貴族たちのあいだで儀式料理として唐の饗応料理の影響を受けた大饗(饗膳)料理とよばれる事様式が形成されるが、これはたくさんの料理を並べて好みに応じて調味料をつけてべるもので、使われた調味料は塩・酢・酒・醤(ひしお)であったという。 醤とは材を塩漬けにして発酵させたもので、動物性の魚醤・肉醤と植物性の草醤・穀醤とに大別される。魚醤は魚の内蔵を塩蔵したもので後に塩辛に、草醤は野菜・果物を塩漬けにしたもので後に漬物に、穀醤は米・麦・豆などの穀類に塩を加えて発酵させるもので後に味噌・醤油へと発展した。日へはまず草醤が最初に伝わったと考えられており、記録に残る古いものとして、孝謙上皇の女官から平城宮の料担当者にあてた請求書の文面として醤・酢・末醤(みそ)が挙げられている西暦763年頃と推定される木簡や万葉集にもいくつか醤や酢が詠みこまれた歌もある

    醤油の歴史 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • イギリスのアンダークラスとは何か、その形成過程について | Call of History ー歴史の呼び声ー

    伊藤大一(2003)「ブレア政権による若年雇用政策の展開 若年失業者をめぐる国際的な議論との関連で」、同じく伊藤大一(2003)「イギリスにおける「アンダークラス」の形成 ブレア政権における雇用政策の背景」において、英国のアンダークラスとは何か、についてMacDonald.R.(1997)の説を以下の通り紹介している。 『「アンダークラス」とは、「社会的、経済的変化――特に脱工業化(de-industrialisation)――や、文化的行動諸パターンを通して、一般に正規に雇用された労働者階級や社会から、構造的に分化され、文化的に区別されるようになった階級構造の底辺に位置付く人々の社会グループないしは階級であり、かつ現在では、固定的に福祉給付に頼り、ほぼ永続的によち貧しい諸条件や地域の中で、生活するように限定された社会グループないしは階級のことである」』 統計上の失業者であると同時に、就業

    イギリスのアンダークラスとは何か、その形成過程について | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • 古代ローマから英国海軍まで欧州を中心に近代以前の海戦の歴史 | Kousyoublog

    序章 船の誕生船の誕生がいつのことだったか、はっきりとしたことはわからないが、少なくとも紀元前八千年頃にまで遡ることが出来る。 有史、人類は木の幹を束ねて「筏(いかだ)」を作り、長い棒きれを「櫂(オール)」にして海に浮かべ沿岸に漕ぎ出した。あるいは筏ではなく丸太を一浮かべただけだったかもしれないし、皮袋だったかもしれない。次の段階、束ねた木の前方を削り流線形にしてより進みやすく改造する。「船首」と「船尾」の区別の始まりだ。やがて巨大な樹木をくり抜いたカヌーや、木々を組み合わせた骨組みにパピルスやイグサ、丈夫な樹皮を張り付けて防水加工した船を造り始める。 紀元前四千年中期、世界最古の帆掛け船がメソポタミアに登場、紀元前四千年後期のエジプトでもより改造された帆掛け船が見られるようになる。「マスト」と「帆(セイル)」の誕生は最初の画期であった。ゆっくりと技術革新を繰り返しつつ海上移動・運送に使

    古代ローマから英国海軍まで欧州を中心に近代以前の海戦の歴史 | Kousyoublog
  • 「チーズと文明」ポール・キンステッド 著

    人類の歴史はチーズとともにあった。 紀元前七〇〇〇年頃、農耕牧畜の進展によって家畜から取れるミルクを豊富に生産できるようになり、さらにミルクを保存し、凝固させることが可能となる陶磁器製の容器が登場、西部アナトリアから肥沃な三日月地帯にかけての一帯でチーズ製造が始まった。 当時、ミルクに含まれるラクトース(乳糖)を消化するために必要なラクターゼを作ることができるのは乳幼児だけだったため、成人はミルクを飲むとお腹を壊してしまい飲むことが出来ない。一方でチーズは製造過程でラクトースが発酵し乳酸に変わるか、乳漿(ホェイ)とともに取り除かれるため、成人でもミルクの栄養を摂取することができる。そのような点でチーズ(とバター)は当時の人類にとって重要な栄養源であった。紀元前五五〇〇年頃以降、成人でもラクターゼを作る能力を遺伝的に持つようになり、現在では人類の多くがラクトース耐性を持っている。 チーズ製造

    「チーズと文明」ポール・キンステッド 著
    inumash
    inumash 2014/06/18
    チェダーチーズ大好き!
  • 「サッカーが勝ち取った自由―アパルトヘイトと闘った刑務所の男たち」

    アパルトヘイト体制下の南アフリカで悪名高かったのがロベン島刑務所である。ケープタウン沖11キロ、周囲は流れの速い潮流で航行上の難所であり、人い鮫がうようよして古くから多くの船乗りが犠牲になってきた。1959年以降南アフリカ政府はここに刑務所を設置し、ネルソン・マンデラを初めとした反アパルトヘイト活動家たちを多数収監して、受刑者たちに対する拷問、私刑、理不尽な暴力、精神的な屈辱などなどが絶え間なく与えられ、非人道的な管理体制が敷かれていた。現在、アパルトヘイト政策の象徴として「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」や「原爆ドーム」などと並び「負の世界遺産」に認定されている。 そんなロベン島刑務所で、1960年代に受刑者たちによって設立されたサッカー協会があった。書はそのマカナサッカー協会がいかにして誕生し、そして受刑者たちに尊厳を取り戻させ、自由と民主主義の精神を育んでいったかを描いた

    「サッカーが勝ち取った自由―アパルトヘイトと闘った刑務所の男たち」
  • 「アンネの日記」真贋論争~偽書説が科学的検証を経て否定されるまで

    「アンネの日記」が何者かの手によって都内図書館で多数破られているというニュースが次々と報じられている(2014年2月)。サイモン・ヴィーゼンタール・センターによる批判を皮切りに海外メディアでも報じられて、国際問題の様相すら呈しつつある。 この事件については当局の適正な捜査を見守るだけだが、これを切っ掛けにふと「アンネの日記」を色々と検索してみると、未だにアンネの日記偽書説がインターネットに広がっているようだ。え?今更?としか思えないのだが、結論から言うと「アンネの日記」は1981年にオランダ国立戦時資料研究所とオランダ国立法科学研究所による科学的調査の上でアンネ・フランクが書いたものと確定している。この件、日ではwikipediaに軽く触れられている程度で、インターネット上にはテキストが見当たらないので、これを詳説したオランダ国立戦時資料研究所編「アンネの日記 研究版」(絶版)をもとに改

    「アンネの日記」真贋論争~偽書説が科学的検証を経て否定されるまで
    inumash
    inumash 2014/02/24
    偽書説についてまとまった歴史をはじめて知った。
  • 江戸時代の公害、環境破壊と人口停滞 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    江戸時代はよく、エコでサスティナブルな社会システムが整備されていたという例として語られるが、一方で急激な経済発展の代償として環境破壊と公害が顕在化しはじめた時代でもあった。 1)江戸時代の環境破壊安土桃山時代から江戸時代前期にかけては全国で都市、街道や橋、用水などの建設ラッシュによって木材需要が高まり一七世紀から一八世紀初頭にかけて日列島全体で森林伐採が行われた。 正保二年(一六四五)、幕府は諸国に対して山林の濫伐を禁じ、伐採の禁止地区の指定や利用制限などを取り決め、寛文六年(一六六六)、貞享元年(一六八四)の二度に渡って森林の乱開発が災害の要因になっているとして特に水害が頻発していた畿内を中心に濫伐の禁止や苗木の植え立てを命じる法令を出している。 このような森林資源の枯渇は江戸時代後半になると徐々に回復していったが、その要因として鬼頭宏「文明としての江戸システム」ではコンラッド・タット

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