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ブックマーク / d.hatena.ne.jp/aureliano (4)

  • 才能がありすぎても美術はうまくいかない - ハックルベリーに会いに行く

    このエントリーを読んで知り合いのNくんのことを思い出した。才能のない子にどうやって美術への進路を思いとどまらせるかNくんは一種の天才で、生まれた時から絵が下手だった瞬間がないらしい。彼はそもそも両親がともに芸大の美術学部出身で、美術にまみれるようにして生まれてきた。彼が絵を描き始めたのは保育園のお絵かきの時間の時なのだけれど、その瞬間からもう上手くて上手くて、両親からは絶賛の嵐を受け、逆に保育園では上手すぎてあまり理解されなかったのだそうだ。Nくんは絵に関しては色も線も形も初めから良かった。味があったし、美とは何であるかということについて、幼児ならではの直感で究極的な正解に肉薄していたらしい。技巧はもちろんまだまだ足りなかったが、線をどのような太さでどのような味わいでどのような色でどのような長さで描けば、面白くなったりあるいは美しくなったりするかというのを感覚的に知っていたのだ。Nくんによ

    j0hn
    j0hn 2009/04/09
  • 普遍的な美というものを考える - ハックルベリーに会いに行く

    id:y_arimさんから以下のようなコメントを頂きました。y_arim id:aureliano ちょっと言葉が足りませんでした。普遍的な美的感覚というものは存在しうるとお考えなのか、美的感覚というものをどの程度まで個人的あるいは相対的なものとお考えなのか、というあたりをお聞きしたいですhttp://b.hatena.ne.jp/y_arim/20081215#bookmark-11307294 ですので、普遍的な美について、ぼくの考えるところ書きます。 まず「美」というものも、他のあらゆる概念の同じように「矛盾した存在」である。なぜなら「醜いまでの美しさ」「美しいまでの醜さ」というのもまた存在するからだ。そうして真の美しさの中には、これも他のどの概念とも同じように、適度な醜さというものが含まれていて、それが隠し味になっている。両者は極めて不可分性が高く、メビウスの輪のような循環構造にな

  • 美というもの価値基準 - ハックルベリーに会いに行く

    面白いとは何だろう?美というものの価値基準は有史以来少しも変遷していない。それは夕やけに対する人々の認識が古来より少しも変遷してないということだ。「秋は、夕暮」というやつである。もちろんスモッグなどの影響で、夕やけそのものが美しく見えなくなったということも場所によってはあるだろう。けれどもそれは、夕やけそのものの美しさが損なわれたということではない。スモッグによって、美しいものを美しいままに見られなくなったというだけだ。 夕やけの美しさを知る人は、永遠不変の美というとああ夕やけのことかとすぐにピンと来る。彼らにとって美というのはものすごくクリアーな概念だから、それを疑いようもないのだ。一方美というものの価値基準と言われてもピンと来ない人たちは、ちゃんと夕やけを見たことがない人たちである。彼らは夕やけをというものを知らないか、あるいは知っていてもスモッグのかかった夕やけしか見たことがないかで

    j0hn
    j0hn 2008/09/03
    人工物で論じてもらわないとぴんとこないな
  • 兵隊さんの位でいうと - ハックルベリーに会いに行く

    裸の大将こと山下清は、いくつものクセを持っていたけれど、そのうちの一つは、なんでも「軍隊の階級」に例えようとすることだった。知的障害のあった彼は、ものごとを「兵隊さんの位」に置き換えることによって、どれくらいの価値があるのかを理解しようとした。逆に言えば、そうしなければ理解できなかった。彼は、自分の絵の価値でさえ、兵隊の位に例えてもらおうとした。 「ぼくの絵は、兵隊さんの位でいうと、何なのかな?」 これは、しばしば物笑いの種になった。なぜなら、世の中の多様な価値観を、たった一つの物差しではかれるわけなどないからだ。ましてや『美』という主観的なものを、『兵隊の位』に例えるなどというのは、非常識であり、言語道断であり、無知にも程があった。 「世の中は、いくつもの物差しでできている(けして一つではない)」「価値観というのは『主観的』なもので、人それぞれだ」「価値観を、一つの物差しではかったり比べ

    j0hn
    j0hn 2008/09/02
    「……これは、しばしば物笑いの種になった。なぜなら、世の中の多様な価値観を、たった一つの物差しではかれるわけなどないからだ。ましてや『美』という主観的なものを、『兵隊の位』に例えるなどというのは」
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