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ブックマーク / www.kojinkaratani.com (3)

  • 浅田彰【キッチュな権威としての平山郁夫】

    新年を迎えて平山郁夫が薬師寺の壁画に最後の一筆を入れる。その儀式をTV中継でみて、あらためて仰天した。風呂屋の壁でもちょっとお目にかからないくらいどぎつく稚拙な絵。それを収めるのに、わざわざ「大唐西域壁画殿」と称する大きな建物まで建てたというのだから、恐れ入るほかはない。東山魁夷が唐招提寺に描いた障壁画も、十分ひどいしろものだったが、平山郁夫の新作は、スケールにおいても、徹底した稚拙さにおいても、それをさらに凌ぐものだ。これらに比べれば、加山又造が天竜寺の法堂に描いた龍の天井画の方が、装飾に過ぎないとはいえ、技巧的に隙が無い分、はるかにましだろう。考えてみれば、下手な絵の挿絵描きにすぎなかった東山魁夷がどういうわけか権威になってしまってから、日画の伝統はおかしくなってしまった。それが平山郁夫とともにとうとう最低点まで達したのである。このような「権威のキッチュ化」は、日画にとどまらず、

  • 岡崎乾二郎【見ることの経験】

    ……岡崎さんは「経験の条件」(雑誌『批評空間』連載)という論文で、ブルネレスキの透視装置の意味について言及されておられました。ルネサンス期に確立したとされる遠近法=透視図法のシンボリックな装置として一般的に知られているブルネレスキの透視装置は、じつはそうした言説とは裏腹に、後に徐々に明らかになる透視図法のはらむ矛盾を、むしろ予知し解決するための試みであった。現実の世界を物質的な桎梏から解放し、純粋に数学的な関係に昇華することがブルネレスキの真意だったというのです。そしてこの関係から捉え直す限り、現実の世界の構造物と装置によって得られる画像との区別はなくなってしまう。この関係が見えもしないし知覚されもしない、いわば悟性によってのみ認識されることを、ブルネレスキは示唆しようとしていたのではないかと。ブルネレスキから多くのヒントを得て後にアルベルティによって体系化された透視図法、しかしブルネレス

    j0hn
    j0hn 2009/10/06
    あとで
  • Web Critique - セザンヌと村上隆とを同時に観ること/古谷利裕

    村上隆の「DOB」シリーズの最も完成度の高い作品、例えば2001年に制作された『Melting DOB D』や『Melting DOB E』といった作品を観た時に、セザンヌやマティス、あるいはゴーキーやポロックといった画家の作品と共通する「感覚」を感じないとしたら、その人は絵画を「形式的」に観る能力に欠けているのだと思う。村上氏がそのことをどこまで意識しているのかは知らないが、これらの作品はたんにパロディとか観照とかを超えて「近代絵画」的に相当高度な作品だと思う。 このことを分り易く説明する時に有効なのが、コーリン・ロウによる「虚の透明性」と言う概念だろう。透明性とは《二つまたはそれ以上の像が重なり合い共通部分をゆずらないと、 見る人は隠れた部分の視覚上の存在を仮定せざるをえない。 このとき像に透明性が付与され、 像は互いに視覚上の矛盾や断絶なく相互貫入する》(ジョージ・ケベシュ)というこ

    j0hn
    j0hn 2009/10/06
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