暗さは生命の文明であって 明るさは頭の文明だ (西脇順三郎『近代の寓話』より) 職業的な絵画制作は、かつては「工」ないしは「工業」に属していた。このことは「画工」という呼び名に、その痕跡をとどめている。「工」には、画工ばかりではなく仏工、大工、蒔絵師なども含まれていた。それは広く製造業一般を指す言葉であった。しかし、明治になると、こうした広い概念に亀裂が生じる。あるいは、そこに分化の動きが起こってくる。すなわち画工や仏工たちのしごとは「美術」に、蒔絵師のしごとは「工藝」に、また大工のしごとは広義の「建築」に、それぞれ属することになった。一方、「工業」の一角に「機械」という利器が配置されることによって「工業」概念じたいに変質が生じる。それまでの手技中心の在り方から、機械制工業を中心とする在り方へと変わってゆくのだ。そのことについて、明治10(1877)年の第1回内国勧業博覧会の出品