昨日も「『日本語らしさ』と訳文の完成度」で説明したが,日本語文法の知識・理解が訳文の完成度を大きく左右する。しかし,母語である日本語の文法知識は意識的なものではないので,自分の頭で考えてもなかなか利用できない。そこで考えるべきなのが,何とか「感覚」で対処できないかということである。以下の2つの日本文を比べて,どちらがより「日本語らしい」かを考えてみてほしい。 私は純子に会って,彼女は写真を何枚か見せ(てくれ)た。 私は純子に会って,写真を何枚か見せてもらった。 おそらくは2.のほうがより自然だと感じるのではないだろうか。なぜかはわからなくても,そのように感じるのではないかと思われる。 では,その理由を考えてみよう。「『日本語らしさ』と訳文の完成度」のときもそうであったが,「~は」という要素の影響は文末まで及ぶ,という文棒規則と関係がある。つまり,1.では文頭の「私は」が「会って」の主語には
英語を読む場合に問題となる表現形式の1つに,a 名詞 of ~という形が形容詞の意味を持つ,というものがある。おそらく日本人学習者がもっともよく知っているのは,a number of ~であろう。うまく考えれば,ここからかなり多くの表現へと理解を広げていくことができるのだが,残念ながら多くの場合,「いくつかの」ないしは「多くの」と訳す,と覚えてすませてしまっているようだ。 この表現形式の基本は,a 数量・種類の名詞 of ~という形式が,数量・種類の形容詞に相当する,という点だ。numberは数量を表す名詞だから,この形式で用いられると「一定の数の」という意味の形容詞になる。この「一定の意味」がどのくらいを表すかについての解釈の揺れが,「いくつかの」となったり「多くの」となったりする原因だろう。なお,はっきりと多数を表す場合には,たとえばa large number of ~といったように
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